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演劇を見たままの感想を綴ろう


by engekistep

MONSTER'S LAIR

ゆにっと・ふぁんたむず & Marmoset COLLABO
MONSTER'S LAIR ~消えていく者 蘇るモノ~
2006/7/6  大塚  萬劇場

 STEP片割れの山岸が、またまたMarmosetに出るというので行った。東京は大塚。萬は初めてだ。大塚は都電がある。高田馬場に通った者としては都電が走ってるだけでうれしくなるなあ。
 さて、2劇団のCOLLABOらしいこの作品。前に見たMarmoset作品同様、未だに良く分からない所がある。結局、最後はどうなったのでしょう。
 とある樹海の中に建つHOTEL。そこのオーナーは、なんとドラキュラ。で、従業員全員が物の怪という設定。背筋の正しいせむし男が客を迎え、人の形をした座敷童子が居候をする。
 このドラキュラさん、物の怪が普通の人たちと共存できないかをン百年と研究しており、様々な手法で一見人間として振舞えるようにワザをかけている。が、未だ完全なワザではなく、ろくろ首さんはムチウチで苦しみ、若き砂掛け婆は不眠症に悩む。そんな噂をどこからか人も物の怪も聞きつけ、集まってくる。そして満月の夜には、二度と帰らぬ者まで現れるという。
 噂を聞いた雑誌記者一行と刑事達も、満月に合せHOTELへ。
 だが、想像に反して物の怪たちは素直に質問に答える。自分達はオーナーにより救われていること、自分の意思でここで役割を見つけ働いていること、出来ることなら静かに暮らして生きたいこと。
 だが、満月が昇るにつれ、不穏な影が忍び寄る・・・

 前回観たMarmoset作品も同じような感覚の作品である。簡単に言えば、ゲームやアニメ的なのだ。物の怪が出るからアニメ的というわけではない。話の展開、演出法にある種の雰囲気がある。友人であるβ氏の表現を借りれば、基本となる話に「コード化」「パターン化」を組み入れた展開と、それを生かすべくポイントを押さえた演出となるのかな。
 http://bbeta.exblog.jp/2322435
 ここでなぜ人の話を借りるのか。正直に言って、こういう展開が苦手なのだ。この手のゲームやアニメが生活の中に普通にある人なら何の抵抗も無く頭に入るのだろう。
 ま、俺、オジサンダカラナア・・・・と、言いたいところだが。せっかく上京してまで意味分からないのを見せられるのは辛いなあ。
 結局、オーナーをコントロールしてた悪者は、何が最終目的だったのか。ミイラさん二人の目的も分からない。オーナーの「妹」とされた女性は、何のために連れられていったのか。物の怪たちは、どこに向かおうというのか。取って付けた様に豹変する妖怪ハンター。妖怪ハンターという生業が嫌だ、という割にはしっかり修行してる演出だし。そもそも才能や生まれ持った物だけで物の怪と対峙できるならハンター一人で解決できちゃうじゃん。
 役者達は分かってやっているようだし、客の殆どが楽しんでいるようなので分かっているんだろう。字で見れば分かるのかな。
 オタク風に言えば、ガンダムにZガンダムのサイドストーリーを無理やり入れたような。欲張り?。
 というわけで、ストーリーとそれに関わる演出は、決して褒められたものじゃない。残念ながら。

 でもね、決して全てが悪い作品ではないのだ。それは役者の平均レベルが高いからだろう。少なくとも楽しんでやってるし。特に平均より高い美形揃いの男優。いいなあ、イマドキの若者は、皆足が長くて。女優達は美形というより個性がしっかりある。役者達はそれだけでも売りになる。そうゆう役者を集められるってのも才能だな。
 でもね。
 男どもよ、なぜ君たちはもっと自信を持って舞台に立たないのだ。いつも何かを気にしているような演技なのだよ。演出にその演技でOK貰っているなら何も気にすることも無いだろう。大事なシーンでもそんな感じだから、客席に偉い人でも居るのかときょろきょろしてしまったぜ。

 物の怪役の女優の衣装が良い、というか、演出の狙いにあっていた。オリジナルのロングタイプメイド服なのだ。この前アキバに行ったら、路上で黒のミニのメイド服のねーちゃんたちが現れて、カメラの連中が取り巻いていた。正直どこがいいのか分からなかった。どう見ても風俗、良くて喫茶店のウエイトレスじゃんと。ところが、劇中の衣装はそういう下品なところは無いのだが、猫娘役の女優にはアクションがある。このお方が高いところから飛び降りたり、後半ではくるくる回ったりして戦っちゃうのだ。さらに白のガーターストッキングで。
 なるほど!と思った。たまにネットを渡り歩くと、メイドが主人公の同人系雑誌がアップされたりしてるが、まさにアニメの主人公そのものなのだ。しとやかな感じの女の子が激しく戦うってのもいいもんだな。と、ちょっとオタク文化の一角に触れた感じだ。
 
 今回も映像を使ったり、流行のものを入れたりした仕立ても悪いとはいえないけど、こういうのを見れば見るほど、シンプルなものを観たくなる。この路線もファンに残しつつ、例えばピーターブルック風の物にチャレンジして欲しいなあと思った。役者には可能性を感じるのだよ。それを面白いと感じるかは別だけどね。

 で、とって付けた様に山岸君の感想も。
 楽にやってるから(手を抜いているって訳ではない)良い感じよ。可能性を広げるには必要だもの。まあ、おばちゃんがんばってるってふうにはならないでね。
 ただね、今のあなたの演技はいまだ心に残らない。もしかして相変わらず全ての台詞を届けようなどと思ってるのかしらね。2時間の芝居でも、観終わっても心に残るシーンはせいぜい30分。1週間経てばわずか10分。その10分間に残るための芝居も考えようよ。
# by engekistep | 2006-07-09 10:31 | 演劇
5月21日 PM3:00 東銀座 同所
脚本/演出 八鍬健之介

 STEP片割れの山岸が出ると言うので行ってきた。場所は歌舞伎座のそば。歌舞伎座の前には、ツアーバスが列をなし、終演で出てきたおばさん達が溜まってるので身動きとれないくらい。逆には新橋演舞場と正に芸能の街といった風情か。

 AIR STUDIOってのは・・・まあ説明するより本人達に聞いてみましょう。
http://www.airstudio.jp/index_333.html

ある地方に、女子大生殺害事件が起こる。未だ犯人は捕まらず、刑事は被害者が葬られている寺に何度も通う。
 この寺。かの一休縁の寺と言うが、今は和尚と小坊主が住む小さな寺である。そこに、素行の悪さに困った親が、修行と言う名目で放り込まれる少年がやってくる。刑事と少年は顔見知りであり、少年には名探偵の才能があり、刑事は事件解決の協力を請う。
同じ時、TV番組制作のため、キャスターとカメラマン、そして変形版細木和子(?)がロケでこの寺を使いたいとやってくる。山岸はこのキャスター役である。
 実はこの寺、被害者の霊が出るのだ。対峙する少年。そこで少年は真犯人を探すことに。
 
 で、芝居の中身だが。
 困ったことに巷ではサスペンスの大安売りをしている。そのためか毎日のように殺人事件をドラマで見ている世代には犯人がすぐに分かってしまう。筋立てがキーワード化されているんだよね。火サスの新聞ラテ欄3人目が犯人の可能性が高い、みたいな。まあ、これは役者の技量ってこともあるんだけど、話作る立場とすると、キーワードに沿って作ったほうが楽だもの。それを悪いとは言わないよ。それをどう膨らませるかが作家の腕だからね。
 今回もまた同じように、登場人物がで出揃ってしまうと・・・約4分で犯人がだれなのか分かってしまった。まあ、芝居の本筋が推理物ではないからいいのだけど。
 しかし・・・カメラマンのタチ君。顔のくどさで舘ひろしのタチ君になったかもしれないけど、最初の登場から立ち振る舞いが犯人なのさ。顔だけで私が犯人ですって。それが演出の狙いならある意味すごいけどね。
 こういうのを見ると、しみじみ毒されているなあと思う。人が死ぬってものすごいドラマなんだけどね。まあこの辺の社会事情は別のお話で。

 さて、感想なのだが。
 まず、この小屋。ビルの地下2階のおそらく20畳くらいの所に、ひな壇に50客席が作られている。舞台エリアは6畳くらいかな。照明吊るなんてことも出来ないスペース。レールにビーム球を付けてやってる。学生演劇を思い出すな。
 でも、こういうの好き。先日見た芝居は、明りも音もそれなりの物を使っているが、芝居の中身がどうも・・結果、カッコばかりの芝居に。一体感まるで無し。スタッフの自己満足。だったらこういう形式で十分なのだ。
 話は前記の通りで、これをお笑いに仕立てている。喜劇ではない。
 喜劇とお笑いとコント。自分はこれを分けている。厳密な規定は無いけれど、本当の喜劇はごくわずかだ。どれも客を笑わせるための物だが、喜劇はおふざけではない。登場人物がまじめで一生懸命なのだけれどどこかずれていて可笑しいが哀しい、というものだ。それに対してお笑いは笑いだけを追及した物でその背景に深みなどいらない。その瞬間だけ可笑しければいいのだ。
 この芝居、残念ながら俺は一度も笑えなかった。笑わそうとするネタは5分に1回は提供してくれる。ボケと突っ込みも分担として成立している。テンポもなかなか良い。でもさ、お笑いには客を引っ張る勘ってのが大前提にあるのだよ。坊さんの頭に良い音でツッコミ入れてもイマドキの客はそれだけでは笑ってくれない。
 比較しては悪いが、あのダウンタウンのお笑いのすごさはそこなのだ。松っちゃんののらりくらりしたボケに反射神経でツッコミ。松っちゃんが受身を取れないくらいすばやい。でもちゃんと計算されてる。客がここで「突っ込んで欲しいボルテージ」の99%のところでスパッと。で、たまに「突っ込んで欲しいボルテージ」が100になっても微妙に引っ張って120%ぴったりでまた。客の反応をつぶさに感じる感受性があるからできるワザだと思うのだ。
 そのためには余裕が無いとね。全役者にいえることだが、本当に余裕がないのさ。せっかくこれだけ客席が近いのにね。客の息を感覚的に感じ、客のボルテージが足りないと思ったら無理にでも引っ張るくらいの「遊び」を持たないと。
 その意味で惜しいのが贋細木和子さん。イキオイはあるし、あのバディは卑怯だ。んでも彼女もまた、がーっと出るだけでくいっと引っ張る要素が無い。素質は感じるが、まじめすぎるのかな。
 で、これはまずいだろうと思ったのがタチ君。俺の観た回で、贋細木和子がミスる。確か「(体調不良だから)夜まで寝かしてよ。」という台詞を「いいから朝まで(ハッ・・・)夜まで寝かしてよ!」と言った。で、彼女が退場してから「あ・・飛ばした」といったのだ。これって何?役の関係性から見てもタチ君のレギュラーな台詞ではないだろうし。もしかしてこの瞬間役者自身に戻って突っ込みを入れたとでも言うのだろうか。もしそうなら絶対やめなさいね。君は人の演技に突っ込めるほど上手くないし余裕も無いじゃん。
 これがタチ君の客ばかりだったり、内輪だけならそれも面白いとは思うが、俺が演出だったら灰皿投げてたな。そういう突っ込みは、役の中のキャラでやるならいいが、君程度のレベルの役者がやったら客は引くよ。確かにあちこちの舞台でも良くあるのさ。先日も夜の番組で久本とゲストが芝居してて、ゲストがとちった。で、久本が「違う違う」とか突っ込みを入れてその場で修正してちょっと戻してまたってのをやってた。これはある意味「久本なら」という客とのお約束事があって成立してるんだって事、久本クラスの役者だからできるんだって言うことを忘れないで欲しい。

 で、久しぶりの「ビルの1室」芝居。基本的には好きな芝居のひとつ。舞台の大きさ=面白さではない。テンポも良かった。でもでも。物足りなさが残ってしまった。笑わせてもらいたかったな、2500円のうち500円でもいいから。せっかく山梨からきたんだもん。面白い要素はたくさんあるけど・・てとこで。

 で、山岸君への感想も。昔よりちゃんと動いてしゃべれるんでびっくり。昔はどっちかしかできなかったんだよね。動きながらだとなに言ってんだか分からない。止まったまましゃべらせないといけないお方だったから、そういう使い方を基本にしてたんだが。舞踊とかが効いたんだろうか。相変わらず棒状態で動くんだけどね。
 あと、相変わらず甲高い声が。ま、これも使い方だしね。
 お互い年取ったねえ・・・

 
 歌舞伎座側の道を通って帰ったのだが、あちらはおばさんバスツアーの列がすごかったな。圧倒された。
 あと、岩手県のサテライトショップによって、ずんたまめのおはぎを買った。うんまいなあ。これ

PS
 そういやトラバられておりまするこのお方も観客の一人。俺とちがって決してけなさず・・てのがやさしくていい。
 基本的には俺は演劇の前の映像って奴は大嫌い。そもそもそういうことは芝居の中で表現するべきだし、やりたければ某浦安のアトラクションのように本編とは別にロビーか客入れの時にでも流すべき。
 ただし、今回の、というか、こちらの劇団のシステムが自己完結型ではなく、多面的に宣伝していかなくてはならないタイプの成り立ちなので仕方ない所もあるかなと・・・
でもさ、だとしたらもっとまともな映像を流してくだされ。次も観たいと思わせるようなね。
# by engekistep | 2006-05-21 23:17 | 演劇

創作座 楽屋

山梨県立文学館 講堂 5月14日 PM2:00~

 アンドロワークショップの講師をやった時に珍しく創作座の役者が来た。創作座の人が外に出るってのは初めて聞いたのでびっくり。
 創作座は山梨では老舗の劇団で、今回20周年とのこと。ところがどうもここのお方は色んな意味で偏りがあった。まあ、組織を長く運営していくってのは大変な努力が必要なわけで。特に芝居のような金にならないような趣味であるし、山梨のような田舎で長く続けるためには、多面的に仕方の無いことなのかなとは思うのだが。

 さて、私は創作座の芝居を過去何度か見ているが、正直最後まで見たのは1本あるかどうか。最後まで見続けるのが本当に辛いのだ。しかし今回はワークショップに参加した方の弁では「昔よりがんばっている」というではないか。
 だから本当に期待をしながら向かったのだ。

 楽屋は清水邦夫が作った本であり、登場人物も4人、舞台設定は楽屋という1場物であることからあちこちで上演されている。山梨でも過去上演されているのを2度ほど見た。結構奥が深く難しい作品である。とにかく、女優の素材を生かさなければ処理できない台詞が山のようにある。女優にとっては真剣勝負できる良い本である。
 ストーリーの紹介は、種明かし的要素が含まれるので、ここでは伏せる。
 創作座は4人のほかに4人のコロスを登場させている。

 まずは4人のコロスから始まる。鏡と思われる物をもって、SEに合わせて動きがある。鏡は意味を持つ重要なアイテムでありモチーフなのだ。
 例えば鏡は「真実を映すものでは無い。魔を映すものだ。」といわれる。楽屋入りした役者は鏡を見ながらメイクをし、ある者はその瞬間に役に入る。ある者は自分の中に役のキャラを見つけ、感情移入していく。現実を生きる人間が、役者として別の人間になっていく。正に「魔」なのだ。「魔」に魅入られた役者は、そこから抜け出すことが出来なくなる、という、演劇人間だからこそ分かる素材だ。。
 「楽屋」はひとつの空間ではあるが、そこには鏡というモチーフで現実と魔の境界線を客に意識させる。そのためのコロスであろう。
 このコロスの使い方。おそらくどこかの劇団でやった物を模写した物と思われるが、これが全くの意味不明な時間になってしまった。客席に対し1メートルくらいの板にシルバーを貼り付けた物をそれぞれが持っているのだが、動きは散漫だしだらだらと動いているのでとにかくキタナイ。反射した光を客席に当て、やろうとしていることの意味は分かるのだが、これじゃあ客に意味は伝わらない。
 これがオリジナルなら、発想は評価しよう。もしどこかの劇団がやった物を模写したのなら、形だけ真似をしてその真の意味を汲み取れない、あるいは役者に対して説明できない演出の責任だな。
 まあ、照明の問題もあろう。真闇にして、鏡にピンで明かりを当て、コロスを完全に闇にしたら、コロスのだらだらした汚い動きを殺せたかもしれない。文学館だから仕方が無いとでもいいたいのか。それが伝わったから、「これは模写だな」と思ったのだが。
 俺はコロスは日本語で「殺す」でもいいと思っている。まずは個性を殺し、演じようとする欲を殺さなければコロスは出来ないからだ。
  最初からやってくれたぜ。全く。
 まあ、これこそが創作座なのだが。もちろん悪い意味でね。いろんな良いものを取り入れようとしてはいるのだ。それは評価できる。ただ、その意味などをまったく理解せずに真似しようとする。姿を真似しても、本質を盗まなければ。良いと思ったら、何が良いと思ったのか、一度分析してから自分に入れていくことをしなければ。演出は頭を使うことを、理屈を成立させることをしなければ。
 中には理屈なんかいらん!、という演劇人はいる。演出、役者含めてね。しかし、そういう人は実はちゃんとその人なりに考えている。方法論がある。ただ、そう言わないだけで。だから、実際やってみるとちゃんと伝わる。考えてない、考えられない演出、役者が出来ない、見せられないのはここにある。「言葉じゃない」は言い訳に過ぎない。

 で、この後はおなじみの本筋に入っていくのだが。

 最初のシーンでは、劇中劇のような形で「かもめ」を演じる女優が登場する。「かもめ」はチェホフの代表的作品である。なぜ「かもめ」なのかは・・これまた長くなるのでこっちに置いて。
このシーンで大切なのは、「かもめ」を演じさせることによって、この女優の力量を客に見せることだ。かもめが演じられるくらいの、自分の楽屋が与えられる位の女優ですら、実際はこんな物なのだ、とか、そこそこ上手いんだけどね、とか。とにかくある程度の説得力を必要としている場面なのだ。逆に言えば、このかもめの演じ方が、そのままその劇団の中心的イメージの演技になる。
 で、創作座は・・・またしても・・この演技は、もしかして新解釈だろうか。これこそ演出なのだろうか。わざとらしい台詞回しに過度な手振り。うーん。

 で、まくらさん登場。あれれ、この人も同じ演技だ。このわざとらしい台詞回しや動きは、演出の計算なのね。うーん。
 
 やはり最後まで見ることは出来なかった。生理的に受け付けないのかもしれない。その理由を書き出せばきりが無い。まあ1時間は見たんだから。勘弁してくれ。最初のコロスで失望したが、あれが無ければ最後まで見たかもしれない。
 
 ただひとつだけ安心した。創作座の作品は、4年は見ていないと思うけれど、今回はその4年前の芝居よかはちょっと良かった。だって、致命的な間違いをしなかったからね。1時間は安心して見えた。それだけでも良くなったか。
 確かに俺を誘った役者さんの言うとおり、がんばってはいるみたい。役者レベルで。だから惜しいんだよなあ。ワークショップで見せてくれたあの情熱が、芝居全体のレベルアップに繋がらない、あるいは繋げられない何かが存在するのか。

 そういう意味では、この楽屋そのものが、現在の創作座の姿なのか。  納得、発見。
        
# by engekistep | 2006-05-15 00:10 | 演劇

贋作 罪と罰 

 NODA・MAP 第11回公演  贋作 罪と罰  bunkamuraシアターコクーン
  平成17年12月22日

 ありゃりゃ、もう3ヶ月もたっとる。時間はあっという間に過ぎてしまうなあ。
 とりあえず大阪公演が終わるまでと思ってたら・・・。

 さて、罪と罰の再演である。これ、前回のも見た。その時の主演は大竹しのぶであった。今回は松たか子という。松たか子の野田作品を見た時はまだ初々しくて、お嬢様という感じだったのだが。今回はどうでしょう。

 贋作・罪と罰は、かの有名なロシアの小説、ドフトエスキーの罪と罰の野田秀樹風リメイクである。本家はもちろん外国産なんだけど、こちらは江戸末期の坂本竜馬暗殺のときを中心に描かれている。野田風の遊びはもちろん多く入ってるけど本家罪と罰の持つイメージを壊したりはしない。むしろ小説離れしてる現代人にはこのくらい軽くなってる方が伝わるのかも知れない。
 
『人間はすべて凡人と非凡人との二つの範疇に分かたれ、非凡人はその行動によって歴史に新しい時代をもたらす。
そして、それによって人類の幸福に貢献するのだから、既成の道徳法律を踏み越える権利がある。』

 本家罪と罰の主人公の主観を、そのまま江戸末期の女学生三条英に置き換えた野田版。名のある旧家であった三条家は、プライドだけは高いが生活は楽なものではなかった。英は家からの援助も受けられず生活苦に陥り、金貸しの老婆より金を借りる。老婆の金を見たとき、この老婆がただ貯めるだけに留まらせるよりも、理想を高く掲げ世の中を導く存在であろう自分が生き、活動していくためには、老婆を亡き者にしてその金を世の中のために使うことも許されることだと思うようになる。
 計画を実行に移した英は、そこに居合わせた老婆の妹をも殺してしまう。
 一方、坂本竜馬を危険思想として追いかける検事の郡は、走査線上に浮かぶ三条英に目をつける。
 己の罪に苛まれる英の前に、家族も含め援助をするという溜水という男も現れる。
 英の家族、英の活動仲間、そして郡の説得により英は・・・

 台本は小説ではない。役者が演じて初めて生きた言葉となるテキストに過ぎない、のだが、これは台本だけでも十分面白い。それはドフトエスキーの元となる小説の普遍的テーマが十分生かされているためであるが、時代設定を幕末にしたところが光るのだ。国という価値観を根本から変えようとする人間達のエネルギーに魅せられるのは自分だけではないはずだ。

 今回の舞台は、ステージにも客席を作り、舞台を2段式のひし形に作り、円形劇場のように全方向から客が見えるようになっている。2段式の下の段には役者の控えスペースになっており、そこで役者が道具を使って効果音を出したりしている。前回の公演では、効果音は全て役者が作っていた。それはなるほど面白いと思った。今回はそれほど活用してはいなかったが、十分生かされた音になっていた。
 主演の松たか子は、すっかりお嬢様的雰囲気が無くなり、良い意味で女優だなーと感じた。もう20代後半なんだよね。ただ、どうしても同じ作品なだけに大竹しのぶと比べてしまう。大竹しのぶの力強さほどは残念ながら足りないのだが、凛とした立ち姿は大竹しのぶとはまた違った魅力になった。大竹しのぶは女性の自立を掲げて、男性には負けないぞという意気込みが、一見強そうに見えて、実は強がっているだけの女性像という感じに対し、松たか子の方は、自分の弱さを認めつつもしたたかな女の強さを根底に持っている女性像に見えた。野田の使い方、キャラの設定方法は本当に関心する。
 野田演劇にはレギュラーとなりつつある古田新太。才谷という書生で英と同士という設定であるが、実はこの男・・・・の種明かしはまたいつか。今回は重要な役ではあるのだが、松とのカラミがどうも落ち着かない。このためにラストの説得力がいまいち足りなくなってるのだ。これは古田が役不足というわけではない。どうも自分は古田新太が舞台に上がると笑い、というか求めているものが違う方向に向いているらしい。役としてのキャラはとってもカッコいい役なのだ。松たか子の凛とした立ち姿と古田新田太。ラストシーンが薄くなったなあと思ったのは贅沢な感想なのか。
 今回とても良かった役者は、美波という女優。役としては英の妹役で、英とは全く違った生き方を選択しようとしている女性の役であり、英が世の中を敵に回しても自分の信念に従って生きることにこだわるが、妹は流れに逆らわず、自分より家族や周りにとって何がいいのかを選択する女性像なのだ。
 ところが。援助と引き換えに溜水との結婚を承知はするが心まで許すことが出来ない。迫る溜水に妹が自分の本心をさらけ出していく。
 この一連の、妹役の美波の演技がすばらしい。家族に、男に従順である自分の姿に酔う芝居から、溜水に追い詰められても自分を捨てないという演技への変化。「~なんですのぉ」という変なイントネーションの付いた台詞を自然にあっさりと使う。追い詰められる場面では本当にドキドキした。今回の舞台で初めて見たけれど、もっと見たいと思わせる女優である。 
 昔一度見た芝居であり、ストーリーも頭に入っているので初回ほどはドキドキしなかったが、それでも細かいところで作り変えた部分も新鮮で、とても楽しめた芝居であった。
 
 ただ悔しいのが、未だに名作「キル」を超えるものを見れないということにある。それは贅沢なことなのだろうか。野田さん。
# by engekistep | 2006-03-14 19:57 | 演劇
アートフェスタ演劇の部最後は、パラノイアの怪である。
今回ななんたって場所がすばらしい。甲斐善光寺の本堂を夜だけ舞台に設営。そこで日本古来の怪談をパラノイア風アレンジしたものをオムニバス上演。こういった場所だからこそ、お互いの相乗効果で面白いものが出来る。

詳しくは http://www.paranoiaage.com/  こちらをどうぞ

さて、今回もSTEP片割れの山岸が出ている。山岸は芝居ではなく「唄」のパートである。こういう経験もいいものだ。
で、そんな関係から舞台設営に3日間引っ張り出された。翌日は年1回だけしか行われない某資格試験であるのにだ。実は去年も同じような日程で、試験と公演がダブった。
結果は・・・・又来年受けますよ。ええ。ちくしょう。来年はこの時期に芝居を入れないで欲しいな。根が好きなのだから、誘われれば断れないのだよ・・・

てな具合で、純粋ではないが設営スタッフ&駐車場係として協力してしまったので、やはり贔屓してしまう。だからあまり感想は書かないことにする。
ただ、場所はこの内容には最適。もしかしたら本物の怪も、客の隣でそっと見ていたかもしれない、と思わせる。
のっぺらぼうやかちかち山など、子供でも分かりやすい話をモチーフにしたところもすばらしい。さらには欲張らず、舞台設定を小さくしたのもいい。
以前から山岸に、「パラノイアは怪はとても定評がある」と聞いていた。他の演目も東京で見たが、なるほどそう思った。
パラノイアの芝居は、舞台から飛び出してくる芝居ではない。どちらかというと役者のひとりひとりが小さな枠を与えられてその中できっちりと作っていく動きをする。今回のように小さい舞台でシンプルなものをするのには良いのだが、大きな話になると、どこか消化不足を感じていた。
それが全て悪いというわけではないのだが。日本舞踊などをやってる人には、いわゆる通好みの芝居なんだろうと感じている。
しかしね、山梨ではこの手の物が過去無かったのだ。もし有っても若い人が見に行くようなスタイルでもなかったと思う。今後も是非に続けて欲しいものだ。皆が知ってる話でも、魅せ方が違うとこうも世界観が変わる、そこを知って欲しい。

しかし、寒かった。お寺の本堂だからね。冷暖房完備の小屋じゃないので、慣れない客は寒くて途中で帰ってしまった。おしいなあ。

あと、小屋でないところでやるのは本当に大変。去年のBPSプロジェクトほどではないけどね。甲斐善光寺を借り切っての公演ではなく、夜間だけの使用なので、昼は通常営業なのだ。だから夕方お寺が終わってから、全ての物を搬出し、設営し、朝からのお寺の営業に支障が無いように元に戻すのだ。それもこれも、彼ら若い役者、スタッフの力があるからなのだね。演劇はある意味華やかな世界なのだけど、こういう裏方仕事があるから、照明の当っている所がきらびやかに輝くのだ。俺はお手伝いだけだったから猫の手にもならなかったけどね。それでもすげーバテた。もう歳だw。
# by engekistep | 2006-02-01 11:29 | 演劇