観劇日誌
2010-02-13T19:12:15+09:00
engekistep
演劇を見たままの感想を綴ろう
Excite Blog
わが町
http://engekistep.exblog.jp/13724870/
2010-02-13T18:42:00+09:00
2010-02-13T19:12:15+09:00
2010-02-13T18:42:45+09:00
engekistep
演劇
作 ソーントン・ワイルダー 演出 望月純吉
文化ホール事業としてのワークショップである。 http://www.yamanashi-kbh.jp/eventsponsordetails.php?p=20d94bce7c733a3533bea78a1a57a6d2
今年から山梨放送系に文化ホールがシフトしたせいか、とても良いワークショップ事業となった。せっかくなので、今後もぜひともお願いしたいところだ。
このWS。県民からの公募で26名の役者が出演、その他として文学座の役者が2名参加している。演出の望月純吉は山梨出身の演出家であり、現在は文学座の演出部に居る。STEPでは最初の作品の「検察側の証人」からの付き合いになる。
わが町についての解説は、ウィキの http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8C%E7%94%BA を参照していただこう。古き良きアメリカの町、グローバーズ・コーナーズの、ある数年間の話である。それもごくごくありふれた日常である。
で、もう早速感想と行こう。まずこれが、全くの新人を含めたWSであることを念頭に置いての話だが、良い出来である。その殆どの良さがこの本にあることは間違いがない。多分全て本の通りに演出したのではないと思うが、(つまりWSの方法として)色んな演じ方を教えつつ、それを芝居に入れるという点でも全く問題なく仕上げている。
公演時間としては、WSとしては異例の3時間だ。でもね、決して退屈な3時間ではありません。体感では2時間欠けるくらいの時間の流れ。つまり、飽きない。この日は予定があって、2時間くらいと予想していたので、このあとの予定に遅刻してしまったが、そんなのもうどうでも良くなるくらいの出来である。
この話は、特別なドラマなど無いのだ。ただ淡々と日常が描かれている。しかしそれでもこの作品の評価が高いのは、その土地に生きようとしている人間達の愛が描かれているからだ。
ではなぜ「とても良い」にならないのか。役者の台詞や動きが拙いのは気にもならない。だってWSだもの。新人だからね。そんなところを突いても仕方が無い。
作品としては3部作。1部ではこの「町」のごくごく普通の日常が描かれる。朝起きて家族がそれぞれの活動に入る。そして成長する。2部では結婚をテーマに、3部では死がテーマになる。
というのを前置きにして、残念ながらとても素晴らしい作品にならなかったのが、この「日常」への愛だ。
1部ではストーリーテラーが語る後ろで、母親が台所仕事をしている。あるいは、家族が帰宅し、迎える。セットには何も無い空間で、パントマイムで家事を表現する。
ここだ。
母親は(この当時の一般的な母親は)家族のために家事をする。ご飯を作る。毎日毎日あきもせず淡々と同じ事を繰りかえす。
なぜ飽きないのか。それは、家族を思う気持ちだ。それを簡単に「愛」と言う言葉に置き換えさせてもらえば、例えば食材を切るにしても、無意識に家族が食べやすい形に切る。味付けもそう。家族の顔を思い出し、喜んでもらえるように。
家族を迎える時は、仕事をしている人であれば「ご苦労様」の意を込めて。かばんを受け取る。上着を脱いだものを受け取る。朝の送り出しでは、できる限りの笑顔で、祈るようにいってらっしゃいと。子どもも、ありきたりの親の愛と分かっていて日常を送るのだ。
残念ながら、この辺の愛の表現が足りなかった。ただ単に、日常生活を繰り返しているだけだと。
おそらく全ての役者は、ここでの演技をしたくて参加している。台本はテキストであり、演出に言われたとおりの台詞と動きをしているのだ。でも、この本への愛はあったのだろうか。本の中の町に対する愛はあったのだろうか。
これがプロの役者だったら、日常の生活に過剰な愛など入れないという表現をとるのだろうが、素人さんである。この辺の愛の表現が足りないので、残念ながら2部、3部の盛り上がりがイマイチなのだ。成立はしているんだよ。2部だけ、3部だけ、という見方なら。でも、例えば子どもの顔を見て、疲れた顔も吹っ飛ぶような親の愛が1部でもっと感じられたら、この3部はもう涙物になるのだ。
「布石」だよね。
と、WSにしては厳しい感想とさせてもらった。だって、いいんだもん。前にも書いたが、あくまでもWSだ。台詞の成り立ちや衣装などは色々言うまい。でも、ただ参加して良かっただけのWSではないからね。特にこの作品に対しては。
場所は文化ホールのリハーサル室。リハーサル室を壁で仕切って明りを入れたとてもシンプルな舞台。部隊の成り立ちは大好きである。椅子とテーブルだけ。背景は白のみ。このシンプルさが、想像力を刺激する。
リハーサル室なんて練習でしか使ったこともないし、ましてや正面から入ったことも無い。いつものように裏から入ろうとしたら止められた。この先は許可証がないと入れません。リハ室は正面からどうぞというので、正面から入れるのですか?正面から言ったこと無いので・・・と言うと「では許可証を提示してください」という。じゃ無くて、普通に正面から入れるのかと聞いているのに「ここから入るのなら許可を」というのだ。日本語が通じないなあ。玄関から入って階段上がるのですか?その先は何処を通ればいいのですか?と丁寧に聞かないと理解できないのかなあ。俺の話し方って。ああ。]]>
新人B
http://engekistep.exblog.jp/7684382/
2007-12-10T12:07:00+09:00
2008-06-04T23:17:01+09:00
2007-12-10T12:07:52+09:00
engekistep
演劇
作・高橋いさお 演出・原和人 プロデュース・猫屋敷さな
スタジオ公演である。稽古場として使っている小さな小屋。アングラを、と熱望していたが残念ながら。早いとこ観たいものだ。色んな意味でね。
さて、演出曰く「新人教育プログラム」であるという。確かに役者の半分は最近参加した役者さんである。
場所はとある銀行。OL3人娘と支店長が居るところに、ピストルとナイフを持った2人組みの強盗が。金を要求し、逃げていくのだが実はそれは防犯対策のlessonであり、強盗もまた銀行員であった。
ところが。
あまりにも上手く行き過ぎて全くリアリティが無い、やるならもっと本物らしく、との反省を受け、ちょうどそこに居合わせた客と共によりリアルなlessonを始めるのだった。
とまあ、高橋いさおらしいノリの良い本である。簡単に言えば「コント巻き込まれ型不条理劇」とでも名づけよう。
この手の本は、登場人物がありえない状況に巻き込まれていく所がポイントにあり、そのあり得ない事があり得てしまうと思わせられるような強引さが必要である。客も巻き込まれないと置いていかれるのだ。
冒頭のシーン。役者の動きをシンクロさせて幕が開く。ダンス、などと言うとちゃんとダンスをしている人に申し訳ないのであくまで「動き」ね。それもだらだらとした。
で、3人組OLが状況説明的な芝居に入っていくのだが。
この台本を読んだことがないので、この3人のキャラが指定された物かどうかは分からないが、おそらく①メガネ掛けたとっても真面目OL。ちょっと空気読めない。②カワイイ系ミニスカOL。仕事よりいかに自分を可愛く見せるかを常に考えている。③仕事バリバリキャリアOL。クールな感じ。なのだろうか。なのだろうか、と書いたのはハッキリしないから。
そうしようとしているとは思うよ。でもそう見えない。例えばまだ台詞があるときはその台詞に頼って演技が出来るからいいが、他の役者がしゃべってるときに自分の任されたテーマの演技をしない。支店長が酔った演技で前面に出てくれるから、それに引っ張られている。支店長が酔えなかったらこれは恐ろしいことになりそう。(ちなみに自分が見たのは初回。)
この最初の10分が弱いので後がきついこと。
それに「私は今以上良くする為に何をどう演じたらいいの?でもこれ以上考えても分かんない」というオーラが出まくりであらら・・・と。
なんでもう一歩踏み出さないのだろうね。どこかで抑えているような。最後まで演じきれないうちに台詞が終わってしまった、みたいな。
なんだろう。綺麗に見える演じ方を追求するも、それが自分で綺麗と思えなくて迷っているような。
まあ、新人さんなんで、ここまでとしましょう。
お客さんは俺以外の方は皆さん笑っていたので、十分成功だったのではないでしょうか。
俺も笑えるように努力しないと。
でもさ、良い所もあったんだよ。佐野さんはますますシャープで綺麗になりつつあるね。雨宮さんは芝居したくてうずうずしてる。安達さんは相変わらず素直だし。同世代としてそのエネルギーはうらやましい。
実はPCの調子が悪くて、何度もフリーズしては書き込んだのが消えてしまう。何度も書き直しているうちに、書きたかったことも忘れてしまって・・・・
イカンナア。若年性認知症が始まっているみたいだ。
思い出したら、また追加していこう。]]>
TEAM☆アヤノの☆の意味は?
http://engekistep.exblog.jp/7145889/
2007-10-09T12:41:00+09:00
2007-10-09T23:10:28+09:00
2007-10-09T12:41:02+09:00
engekistep
演劇
さて、貢川アートフェスタ参加作品。
平成19年10月8日。PM7:00~
「しらみとり夫人」 作・テネシーウィリアムス 演出・斉藤綾乃
HANA まこっち Ryoko
元アンドロの斉藤綾乃率いるTEAM☆アヤノの第一作。テネシーウィリアムスのしらみとり夫人を斉藤綾乃が料理した。アンドロの芝居を見た人は「あんな感じ」といえば分かるでしょう。決して普通の芝居はしませんね。綾乃さんは。
で、40分の芝居。まずは、成功。だって、この日だけで40人以上の動員。雨なのにね。ええ、もう31人以上の動員があったらそれだけで成功なのです。ええ。
テネシーウィリアムス。病めるアメリカの社会を冷めた目で見る劇作家。彼のテーマには、精神を病み、それでも希望を探し生きる人達が多く描かれている。ガラスの動物園ではガラス細工の動物達との世界に逃避行する妹を。またバーサよりよろしくや欲望という名の電車では精神を病む女性が、娼婦が崩れていく自己世界だけを頼りにする姿を。
そんな偏った愛を描き出す彼の作品を、アヤノさんは白壁と白砂で表現した。
で、作品評価は。
アンドロの片割れだった萩原興洋のブログでは、彼女の作品のテーマを「アンドロの遺伝子を継ぐ」と有った。そう、アンドロは二人で一つの世界を作っていたんだなと改めて実感したのだ。だからこそ思った。「甘い」と。
この甘いは、ツメが甘いとか、甘ったるいという悪いだけの意味ではない。近い言葉で言えば女性的なのだ。特にエログロな部分での深さが無い。下手すると綺麗な方に偏っているのだ。
エログロ。これは下世話な話では無い。エログロは誰でもが持つ、あえて外に出さない人間のダークな部分を表現する言葉なのだ。アンドロ時代ではこのエログロの切り方が鋭かった。多分この部分では興洋が作っていたのだろう。
アヤノエログロはこの部分が表面的なのだ。
興洋との共作のエロは、例えば女性なら崩れる寸前の危うさをギリギリ追及する。視覚的な表現でするなら、着物の女性の表現なら胸がはだけるだらしなさからのエロであり、アヤノは襟首から見える背中のなまめかしさだろう。
だからね、ダメだって訳ではないの。どちらが良いってわけではないから。ただね、過去の作品を見てきた人間からは、どうしても比べてしまう。これは綾乃さんにとって損だな。綾乃色を明確に出すためにも、あと3作品くらいは最低でも挑戦して欲しいなあ。まあ、やるだろうけど。
役者に関しては、それぞれの劇団なりにやってきた兵なので。
まあそれでも。
まこっちはB-BLACKの役者さん。過去のこの観劇日誌にも書いたが、彼はここ数年で大きく成長した役者の一人。顔も良いのよ。スッキリとしてるので深みのある役が弱い所もあるけど、台詞を真っ直ぐ言い切れる身体は優れものだと感じている。
今回は皆顔は白塗り。つまり個性を殺し、ナマを殺し、体を道具として扱っているということ。これがちょっと辛かったか。
多分、彼は今回の役について何も考えていないと思う。ただ単に自分を演劇の道具にしていると、演出の人形になっていると感じた。それでいいのだ。少なくとも今回は。妙な色気も何もいらない。
ただし、ラスト近くが弱かった。彼は十字架を背負って出てくる。残念ながらこの十字に意味が込められないのだ。彼の人生がかぶさらない。もったいない。
この元の本を見たことが無いのでどういじったのかは分からないが、彼はチェーホプという設定なのだ。もしこの部分を綾乃さんがそうしているなら、何故に彼はチェーホフなのかの意味と動機が無い。だからラストの意味が殆んど「白の綺麗な世界」ど終わってしまっているのだ。綺麗に魅せることだけが役者の仕事ではないはずだ。もちろんそれだけを求める客は居るだろう。(言い方は悪いがそれしか理解できない客も居るのだ)でも、そんなのはすぐに飽きられる。心のどこかを針で突かれる思いを観た人に残す役者になってほしい。
Ryoko。彼女の芝居は久しぶりに見た。彼女は今まで弱かった。失敗した姿は見たことは無いが、例えば本番中に客が変なリアクションしたら、それが気になって芝居が止まってしまうくらいの弱さがあった。今回は落ち着いている。多分それは年をとったせいだな。もちろん良い意味で。色んな経験をしてきたんだろうな。落ち着いてみていられたよ。
でもね、残念なのは自分の殻を絶対破らないことだ。型破りの役をやっても、Ryoko自身が・・・いや、それはもういい。
ただね。今回は良い方に転がったけど、喉をつぶしたのはまずいんでない?押しの強さはとっても出てくるけど、細かい表現がおろそかになるんだよ。抜く芝居っていうのかさ。
HANA。ここのところ立て続けに芝居漬け。いいねえ。HANAもどちらかと言うと自分の個性を出さない、と言うか人形であれと考えてる人。だから今回もそれでいいのだ。でもねえ。エロが無いのよ。HANAという女優は固いんだよね。根がまじめなのかなあ。娼婦役なんだけど、男の匂いが無いんだ。外国の金持ちがパトロンで金を送ってくるという台詞がうそっ臭いんだ。いや嘘なんだろうけど。芝居の設定でも。でも、そんな嘘でも信じなければ自分を保てない強さと弱さが欲しいの。もったいない。本当にもったいない。
綾乃さんに対しての「甘い」とか「綺麗」という表現を使った原因はここにも。体の線を出し下着を見せるというのは方法として正しい。でもそれはたぶん女性から見た色っぽいだと思うのよ。HANAにはあまり隙が無いの。簡単に捨てられる女という危うさがね。
彼女には片パイ出したら?などとアンケートに書いた。彼女がもし本当にドレスの胸元から胸が完全に肌蹴たとき、色っぽいとか思われたら失敗なの。だらしない、と思われるようなら、HANAは変われるのになあ・・・と、HANAファンとしては違う方向で見てた(と思う)。
ま、稽古も含めて時間が無かったのかな。綾乃さんが動きを指示して、そのおとりに動くことがまあ出来た、というレベルか。
っていうか、アンドロ時代もそうだけど、役者が理解する、指示された動きを分かってやってるというところまでいくには並大抵のことじゃないのね。どこでもいいし、誰でもいいけど、もう一歩踏み出すことが出来たら「素晴らしい」といえるんだがなあ。
オープニングのうつろな感じも静止画の綺麗さは有るけど動画ではないし、仕切りの幕(紙だから幕ではないが)に飛び散るのもアイデアと画像は分かるが意味が繋がらない。俺の言い方で言うと動機が繋がらない。
それも「甘さ」なのね。
http://sompi.exblog.jp/6281653/
このお方は隣の席で見てた方。なんと好意的な。本当はこうでなくちゃあいかんのだがねえ・・]]>
再開、します。
http://engekistep.exblog.jp/7145830/
2007-10-09T12:29:15+09:00
2007-10-09T12:29:14+09:00
2007-10-09T12:29:14+09:00
engekistep
演劇
訳有って更新せずにいた観劇日誌ですが、演劇仲間のBさんの励ましにより、ひっそりと再開いたします。Bさん、ありがとう。
この間、STEPもプロデュース公演を行いました。
キ・マグレ 「エリコ」 です。
1ヶ月稽古、1ヶ月制作、1回公演、100人の動員予定、千円の席料、10万円の自己資金のみで行うというとんでもない企画。色んな人に失笑されつつも、自分では大変満足な公演でした。
但し、観客動員数わずか31名。過去最低の動員記録となりました。もちろんこれの全ての責任は自分にあり、自分のプロデュース能力の無さ、演劇力の無さ、更には普段からの交流の無さに原因があります。
だってね、役者である萩原興洋とHANAの演技、凄かったもん。いやほんと。何故にそれを1ヶ月で出来る、と。照明も無く、きちんとした舞台設定も無く、多目的ホールのような演劇をするには最悪の場所。役者にとっては自分をよく魅せるような武器も何も無い状態で、本当に裸の勝負をあの二人はやり遂げたのです。
出来ればSTEP演出でなく、いや、キ・マグレのような低予算でなく、もっときちっとしたプロデュース団体が作った舞台ならばどれだけ良かったか・・と。すっかり一観客として見入った舞台でしたな。何も無くとも芝居は出来る。演じたい気持ちと方向性さえあれば芝居になる。山梨の演劇の現状に対する答えを、STEPとして出したつもりです。
と言うわけで、この件も色んな要素を吹っ切る一因にもなりましたので、再開します。
で、もしこの観劇日誌に取り上げられ、感想に対して腹立たしい思いをなさったら、どうぞ「たった31人のくせに!!」と反撃してくだされ。
STEPは自分のこと平気で棚に上げていますからね。]]>
お知らせ
http://engekistep.exblog.jp/6247595/
2007-06-05T19:12:42+09:00
2007-06-05T19:12:42+09:00
2007-06-05T19:12:42+09:00
engekistep
演劇
私の言葉遣いのキツさを、色々な方に指摘をいただいております。よく言われるのが「やってる側は一生懸命なんだ。それをけなされるような言い方は気に入らない」と。
その通りで御座います。
気持ちも分かっております。だって、自分も作り手の端くれですもん。
でも、自分の所でやって思うのは、実直な感想を述べていただける機会があまりにも少なかったことです。演劇は、アンケートという形で感想を聞かせていただいていますが、回収率は正直悪い。
だったら目立ってやれと。「お前はどうなんだよ」という返事を欲しくて、アンケートには厳しい評価を書かせていただき、更にこういうBLOGという手段を得てからは、これに書き込むようにしたのです。
が予想に反し、返事をいただける皆様の言葉はなんと温かいことか。ありがたいことです。もう感謝感謝です。
中には、絵文字や(笑)などを取り入れたら、ずっと柔らかくなるのに、というアドバイスもいただきました。でも。
物書きの端くれとして、例えば(笑)は、読み手に「ここで笑って欲しい」を汲み取ってねという信号になりかねない。自分には、文に力があれば、そんなもの無くても笑わせなきゃあ、という欲望があるのです。まあ、拘りというか。
結果、沢山の誤解を招く結果となりました。
今回も、別の処で自分の意としない間違いがありまして。もちろんそれは私の不徳の致す所ですので言い訳はしませんが、結局それは私の表現方法が間違っていたということの証拠でもあります。
改めて、過去の日誌に登場していただきました皆様には心より謝罪すると共に、深い深い感謝を申し上げます。 今までありがとう。
]]>
イーハトーブ2007
http://engekistep.exblog.jp/6187050/
2007-05-27T22:35:00+09:00
2007-05-29T12:15:54+09:00
2007-05-27T22:24:15+09:00
engekistep
演劇
原作・宮沢賢治 脚色・構成・演出・佐野瞳
Bが稽古場として使っている小さな劇場での公演。今回はB=アングラではなく、宮沢賢治の作品をオムニバスのようにつなげて1本にしたものである。スタジオ公演ってヤツだね。
まあ・・そうねえ。
作品そのものは、アニメやドラマになっているもので、いたってそつなく。こんなものでしょうね。役者の半数以上が肩の力を抜いて、だらだらと、とは言わないけど、楽にやってるのが伝わる。「楽じゃねえよ」というかもしれないけど、そう見えるのは事実なんだもの。だから見るほうもボケボケと見せていただきました。
肩の力が抜けていることは決して悪いことではない。むしろ良いこと。全員がそうなら理想。でも、楽な人とそうでない人がいると、どうしたって比較しちゃう。
もしかして、それが演出の狙い?? もしそうなら奥深いぞ。
でもさあ・・・はっきり言ってしまえば別にBがやらなくてもって感じかなあ。
今まで賢治作品を見たことが無かった人には面白いと思う。これが若手だけでチーム組んでやるならまだいいのよ。本当の意味で佐野瞳さんがやるなら。勉強になるからねえ、演出や舞台構成の。まあ、事情もあるだろうから、そこはあまり突っ込まないけど。
小学校の時賢治作品教材にならなかったっけ? 世代の違いはあるにせよ、国語でやったような。あめゆじゅとてきてけんじゃ・・まるで呪文のように頭に残ってるんだけどなあ。
銀河鉄道、良いよね。大好き。正直とても期待したの。ジョパンニとカムパネラは銀河を旅する。でもカムパネラは途中下車してしまう。(あれ、ジョパンニだっけ?まあ、どっちか)
で、思うのは・・・そこからジョパンニはたった一人で帰ってくるんだ。夏祭り会場近くの原に。原に下車してからは原作に書かれているけど・・・ジョパンニはどんな思いで、一人乗ってたんだろう。出会いと別れがあって、それは避けるものではなく受け入れるものであり・・・そうやってジョパンニは大人になっていく。ジョパンニは選ばれた子供なんだ。童話を読む新しい子供達に伝えるための。俺の6歳の娘が、新しく出来た友達との別れを、淋しいって感覚をあの子なりに整理するようになった。俺らのような損得の入った汚れた感覚ではなくてね。そういう心のどこかをちくちくしてくれる感覚がどうもね・・・
で、まず注文の多い料理店からオムニバスが始まる。2人の猟師が山の中の料理店に入る。
物語はいいんでないの。でもさ、嫌なんだ。
中心的存在の雨宮さん。細かいとこまでがんばってます。パンツの後ろには手書きで男根が。
こだわりだ。 でも相手の若い役者・・・いたって普通、というか普段はいてる下着かなあ。
おいおい、俺より年上のベテランさんが茶色の猿股にまでこだわってその世界に入ろうとしてるのに、おまいは・・・パンツだけじゃない、その他もろもろ雨宮さんなりのキャラ作りをしているのに一体・・・・若いんだからフンドシくらいしてこい!と怒鳴りたくなった。というより悲しくなった。雨宮さんのBに掛ける情熱を、せめて共演者くらい理解して欲しかった。
無理に笑わせろ、というのではないんだがねえ。
まあ、こんな感じだ。全部において。Bが賢治作品が似合わないと言ってるんじゃないんだ。いつものアングラに掛ける情熱が無い、というか欠けてる。若い役者にね。佐野さんもいっぱいいっぱいなのは分かるんだけどね。せっかくのスタジオ公演なのにねえ。意識してる雨宮さん原さんはなにやら飛び道具を考えていたね。同世代として、素直に可愛いと思った。
いつも思うのはね、役者がしゃべり出した瞬間、出てくる前の時間の流れや風景が感じられることって大切だと思う。役者が板についた時から時間が流れてるんじゃなく、舞台上は切り取られた瞬間だと思うから。Bはあまりそれが無いんだよなあ。
客演組がそつなくこなし、昔からのメンバーは余裕こいて空回りになっちまう、新しいメンバーはどう絡んでいいのか探りながらと。
まあ、楽しい時間だったような感じだからいいか。スタジオでの実験だったと思えば。ツバがかかるくらいの距離だから役者の素材がはっきり出る。こういう狭いところ大好きなんだ。
次は皆同じ方向を向いて、Bらしいものを見せてほしいものだ。今回のは、ある意味サービスとして。こんなのも出来るんだよ、新人育てないと、って。
と同時に、新人外に出させないと。嫌がるかもしれないけどさ。
唯一とっても安心したのは、裏方の彼だな。彼はツナギを着て裏をやってたが、裾をばたつかないように靴下に入れてた。その姿がなんとも可愛い。ついね、芝居なんかやってるとカッコ付けたがるんだ。正直みっともないカッコなんだけどね。でも、その一生懸命仕事してる姿がいいんだ。
俺ね、こういう姿が良くてBのファンなんだがね。
まあ、次、次。
]]>
葵上
http://engekistep.exblog.jp/4677449/
2006-10-05T13:59:00+09:00
2006-10-14T10:15:45+09:00
2006-10-05T13:59:59+09:00
engekistep
演劇
作・三島由紀夫 演出・萩原興洋
8月26日 19時・21時 27日 19時 場所 山梨市 櫂
出演・河原地錻 小林由季 玉乃屋マチ子 萩原興洋
8月に見た芝居の感想を10月に書いている。ちょいと手を抜きすぎだ。第一忘れてるだろう、と突っ込みを入れられそう。
先日もとあるお方から今回の感想を早くUPせい、と催促があった。読んでいただいているというのは嬉しいものだが、自分は不器用なのよ。あれもこれもできましぇん・・・
で、葵上。
三島由紀夫の近代能楽集のひとつで、元々あったのに三島が大きく手を入れ三島流の本に仕立てた物。
若林光の妻、葵は、病に倒れ入院。駆けつける光。光は美しい男であり、葵の世話をする看護婦も光との会話に心乱している。
看護婦によると、毎夜同じ時間に葵の元を訪れる婦人がいるという。不振に思う光。
そしてその時間になり、現れたのは、昔光と関係のあった六条康子であった。
康子はこうやって毎夜葵を尋ねて来ているという。それは見舞いではなく、葵を追い込むためだという。戸惑う光だが、次第に康子の怪しい雰囲気に引き込まれていく。
忘れ物をした康子に電話する光。ところが康子は家から全く出ていないという。では今までここにいた康子は・・・
今回は、主メンバーの3人に、新人の玉乃屋マチ子が葵役として参加。幕開けから思ったのは、「興洋が光かいっ!」と思わず笑ってしまったのだ。
これは良いとか悪いという意味ではなくてね。興洋とはただ単に知り合いっていう形の繋がりではなく、同じ芝居を作った仲間としての感覚が強くある。昔の興洋なら何の違和感も無かったのだが、それなりの年齢になった興洋であり、光というキャラが女を強く引き寄せる魅力のある美男子であるイメージが強かったもの。だから、お互いに歳を取ったのだなあと、役うんぬんではない部分で見てしまった。
くれぐれも言いますが、興洋が光に相応しくないとか、美形でなければと言っているわけではないのです。
これを前置きとして・・・
見てない、知らない人には暴露しますが、康子は実は生霊なのです。康子の光への思いが強く、生霊となってまで、葵を苦しめ、光を奪い返したいという話なのですな。
ってことは、前置きとして、生霊となってまでも逢いたいと思える男でなければならないのですな。顔が美しいとか足が長いだけではジャニーズでさえ生き残れないのです。
さて、そこまでの想いにさせる光の魅力を、今回はどういう形で作っていたのでしょうか。
世の中は不思議なものですなあ。何故あんなブ男にあんな美女が、というのを良く見かけます。ホストクラブのナンバー1になった男なら、何人もの女性をはべらせて生きていくのはある意味仕事でしょうが。
で、興洋。興洋がブ男だと言う気は全くありません。それどころか、とても面白い男であり、かれの魅力は沢山あります。でも。
今回の光は、それだけではちと悲しい。
今回のは、とても分かりやすい芝居だった。身体のテンションだけで表現しようとした前回の葵上との比較でも、表現したい主題を大事に演出した方法はとても評価したい。その理由のひとつは、主メンバー2人と、他の役者との身体能力の差にある。
過去のアンドロは、役者の能力に差がありすぎた。表現活動としては、一番良い表現を出来る役者のレベルに合わせて作っていくのが理想だとは思う。でも、その理想のあまり、そのレベルに達しない役者があまりにも下手に見えてしまうのだ。
看護婦と光の絡みのときも思ったのだが、差があるなら、彼女には同系の動きではなく、軟体系のぬめっとした動きを目指したほうが、不気味さが出て良かった・・・・かもしれない。と勝手に思った。
良いのは会場とセットと、演ずるエリア処理かな。芝居って、何も無いほうが想像力かきたてられていいんだよね。金かけたからって良い芝居が出来るとは限らない。
アンドロはそういう意味でも刺激をされるんだ。
]]>
笑の大学 ジアス10周年記念公演
http://engekistep.exblog.jp/4387231/
2006-08-22T11:04:00+09:00
2006-08-22T15:56:57+09:00
2006-08-22T11:04:00+09:00
engekistep
演劇
演出:はやおとうじ 出演:砂澤雄一 坂本勇太
三谷幸喜の名作「笑の大学」。三谷お得意のシチュエーションコメディー。舞台ならず映画にもなったまさに名作。まだ映画はみていないが、舞台は本当にすばらしかった。元サンシャインボーイズの西村雅彦と近藤芳正。演出も元サンシャインの山田和也が担当。三谷も良いが山田を演出に指名したのは正解だった。すばらしい舞台であった。
舞台は戦中の日本。警視庁保安課取調室。 笑いを徹底的に弾圧しようとする検閲官・向坂は過去笑ったことがないと自負するほどのお笑い嫌い 。そこで喜劇を上演する劇団の座付作家・椿が、上演予定の台本の検閲を受ける。無理難題を押し付け何が何でも上演中止をさせようとする向坂と、認めさせようと何度も何度も書き直しをしてくる椿。椿は戦中日本を笑いで救おうと戦いを挑むのだった。
感想
ある劇団の稽古を見学したときであった。そこの演出は稽古中の台本をとにかくけなす。その本はそこそこ名の通った人の書いた台本であり、定評はあるものだった。確かTVドラマでもやった記憶がある。演出の言うのはこんなことだ。時代背景がでたらめなこと。この当時はこんなシステムは無く、こんな結末には絶対ならないと主張していた。例え演劇でもルールはある。全くの架空の話ならともかく、実際にあったであろう話を作るのだからと。
確かにそうかもしれないなあとは正直思った。たまたま以前興味を持った史実で、それについて調べたことがあったから。シェイクスピア時代ですら、舞台上で繰り広げられる話は、時間が一致していなければ、場所が一致していなければなどと決まりがあるくらい。(興味のある人は調べてみると面白いかも)
でもさ、今の時代にどうでもいいじゃんこんなこと。それ以上にその本がとても良いものだから。
恐らく作家は、そこに登場する人物を生かすために都合良くシチュエーションを変えたのだろう。作家が書きたかったのは史実ではなく、そこに生きた人がどう生きたかを書きたかったんだから。そこを掘り下げないでその劇団は稽古を進めたものだから、作品は褒められるものじゃなかったなあ。
で、笑の大学。当時はこんな面接による検閲なんて無かった様子。担当者が書類だけ見て決定する。作家が呼ばれて取調べを受けるときはすでにレッテルを張られた時。その後は・・・
それをこんなふうに仕立て上げられるんだものなあ。三谷のセンスが光る。
さて、ジアス版笑の大学は・・・これも必要かなとは思った。本物の舞台版を見ると分かるが、西村だから三谷はこう書いたんだなとか、近藤だからこんな台詞回しなんだろうなと。例えばサンシャイン時代から、西村はちょっと皮肉な感じの台詞の喋りが上手かった。さらりとしゃべるのだが妙に心に来るいやみなのだ。例えば自分の感情を一言で言い切る時。好き、嫌い、間違ってる。先にこの感情をポンと投げておいてからスラスラと台詞をつなげる。これが良い感じのいやみになる。
近藤もそう。近藤の振り回され感はあまりにも見事で、かわいらしさすら感じる。大汗かいて一生懸命になればなるほど滑稽で悲しい。
三谷の本を知ってるからこその山田の演出である。
で、ジアスの何が必要かなと思ったのは、ジアスの演出が山田和也の演出のコピーであったこと。他の芝居でコピーってのは面白くない。特に前記のように当て書きのような場合は、その役者が演じてこそ面白いってのがどうしてもある。
でもね。これに限らず三谷の舞台を見たいと思っても、少なくとも山梨ではやらない。シアターコクーン1ヶ月の公演であっても、チケット前売り電話予約10分で売り切れである。笑の大学は映画でも、BSの演劇番組でもやっているからまだいいが、一体これだけの名作をどれだけの人が見ることができるのか。
ジアスの演出がそこまで狙っていたのかは不明だが、今回は役者が二人とも西村雅彦と近藤芳正になりきろうとしていた。細かい台詞のイントネーションまで取り入れようと努力をしている。逆に言えば、このまま三谷と山田和也を超える「笑の大学」を作るのははっきり言って無理だと思う。それならば「実はこんなに面白い演劇が世の中にあるんだよ。演劇って良いでしょ」というのを山梨から離れないけれど面白い演劇を見てみたい人に紹介する。三谷って良いでしょ、山田っていいでしょと。そういう役割も必要だなあと思うのだ。
これと同じ感覚を、つかこうへい作品にも感じる。つかの作品は「口立て」と言って、基本となる台本はあるけれど、稽古中に役者にしゃべらせて、ストーリーの背景も含めて役者に演劇を合わせて作り変えていく。売られている台本はそうやって完成したものであるから、アマチュア劇団が上演してもその役者じゃなければ表現できない、あるいは意味が通らないこともある。更には演出もその役者に合わせたテンションで繰り広げられるから、別の役者、別の演出がやってもどこか欠けたような世界観になっていく。それならばつかのマネをした演出法で上演したほうがいいのだ。
というわけで、「笑の大学」を山梨の人たちに紹介するという役割は上手く行ったように思う。客にも十分受けていたし。こうなったら三谷作品を端からやって行って貰いたい。今回のように役者も演出も細かくコピーして。三谷は映像ではどこかピンボケになる。三谷の真の面白さは舞台なのだ。それをどうかアピールして欲しい。
客の評価は良いでしょうね。間違いなく。
で、もうひとつの感想。
俺はね、そんなもの観たい訳ではないのです。これだけ世に評価された作品。コピーがオリジナルを超えるのは不可能に近い。ジアスがこの作品をどう解釈し自分たちが何をしたいのか。それを知りたいのだ。それこそが生の舞台の面白い所なのだから。この作品のジアスらしいところはどこだったのでしょう。未だに分からない。向坂の苦しみってなんだろう。
本物の舞台を観て、ぐっと来たのはあのラストだった。西村がそれまで見せなかった表情で「ここはこうのほうがいいと思うんだけどね」と言い、机に台本を広げる。不器用な姿勢で。椿は一瞬唇を噛み締め、受け入れる。舞台はフェードアウトしていく。西村雅彦と近藤芳正をコピーするなら、ここまでやって欲しかったなあ。
オリジナルは、本当に、良い舞台だったんだからさ。
逆に、映画がとても楽しみになってきた。「有頂天ホテル」は面白かった。でも悔しい。これを舞台で見たらもっと面白かっただろうなあと。だから「笑の大学」は映画館に行かなかった。行けなかった。どうだろうなあ。レンタルDVDが楽しみだ。
]]>
Free Project 4 ハルシオンデイズ
http://engekistep.exblog.jp/4162183/
2006-07-17T10:00:00+09:00
2006-07-17T14:50:14+09:00
2006-07-17T10:00:01+09:00
engekistep
演劇
作・鴻上尚史 演出・MIYUKI
山梨の女性だけの若手の演劇チーム。フリプロももう4回目の公演。若手がんばってるねえ。
先日のBの公演の時に真由さんと会った。土曜日1回きりの公演。勿体無いねえと聞いたら「お客が集まらないから」と。難しいところだね。分散しても2回公演にしてトータルの客数を上げるか、1回にして席を埋めるか。まあ、それ以前にホール使用料、有料スタッフも2回分というのが重くのしかかってくるわけで。そう考えると同じ県内のBはやっぱ異質だな。お金も情熱も掛け方が桁違い。
安く押さえる方法はないものかねえ。
ハルシオンデイズは第三舞台の鴻上尚史の書いた本である。現在は第三舞台も活動を停止。鴻上はプロデュース公演を中心にあちこちやってますなあ。純粋な第三舞台は俺もリアル世代なんだけど、チケット争奪戦わずか1勝で活動停止されてしまった。それも最後の方の公演で、珍しくフルメンバーに近かったのを観る事ができて面白かったけどね。
ここ10年以上、鴻上の書く本はパターン化している。キーワードは「インターネット」「精神的病気」「トリップ」「過去と現在」「壁を越える」「出会いと仲間」など。過去の作品をリメイクした物もこれらのキーワードをちりばめてから再出発している。おそらくこれらのキーワードは鴻上にとってものすごいショックな出来事だったろうな。ネット普及により社会的価値観さえ覆される、今まで理解不能で恐怖でしかなかった精神世界が細分化・パターン化され素人でも分かるような言語に変換された。まあ、正しくは理解出来た気になった。羊たちの沈黙やMATRIXのようにね。
でもさ・・・パターン化しすぎって思っちゃうんだな。と思う反面、この手の事件の起きない日は無いって事も哀しい事実だな。
ネット掲示板で自殺志願者を集める書き込みを見た4人は誘いの場の公園で出会う。自殺意思を確認しあう4人。出来ることなら「苦しまずに」。だがその一人は実は自殺を止めようとするカウンセラーであり、彼女もまた自分のクライアントの影を人格として持っていた。数日後、主催者の自殺の書き込みで彼女のマンションの1室に集まるが、主催はそんな書き込みはしていないという。それどころか先日会った時の主催とどこか違う。彼女は起きるであろうミサイル攻撃に対して「人間の盾」となり子供たちを守っていると言う。消極的死ではなく、人々の犠牲となる死。それも明るく楽しく死ぬための方法を探り・・・
「で?」
感想を正直に書かせてもらうとこの一言だけしか残らない。演技というところだけ取り出してみれば散りたてて悪いって所も少ない。でも、良いところって何だろう。
確かにピンポイントで拾い上げれば、あの場面のこういう演じ方は良いねえ、と挙げられるのだが、そんなもの観に来たわけじゃあないし。そんな個人プレーいらないし。
なぜこの人たちは死にたいのだろう。もちろん台詞としても少しはある。でもそれが役者演ずる「その人の苦しみ」に昇華されていないのだ。苦しく死ぬのは嫌だから皆でなにかしながら死のう、というだけの本だったのかな。最後はどうなったのだろう。はっきりとした結末は書かれてはいないが、観た人が自由に理解できるほど何かを与えてはいないんだな。「共感」が出来ないんだ。だから何の感動も無く終わってしまった。
鴻上の作品である「トランス」。3人芝居ではなかなかの名作であり、あちこちで上演されている。トランスに登場する人物は、精神的病と同時に人格的にも欠けた3人が、まるでパズルの様に話を進めていく。お互いが足りない所、欠けてしまったところを他人の言葉で埋めていくように。
精神病院。それぞれの特徴のある3人の患者は、それぞれの病気の特徴を真似しながらロールプレイをし、役割を交代させていく。AがBになった時、Aは自分の言葉でBにとっての死を語る。そこで初めて自分を見つめられるという話だ。
このトランスだって、台本に書かれた字面をそれっぽくしゃべってもだめなのだ。同じ台詞を役割を代えて、そこにそれぞれの思いが入って初めて生きた言葉となる。
役者と演出のコミュニケーションの無さが原因だろうか。良いところは沢山あるのだ。それが証拠に笑いを取るシーンでは子供が沢山笑ってたじゃないか。今度は笑いじゃないシーンで目をキラキラさせてやろうよ。
あと、どうも気に入らなかったのは、音楽だな。芝居と音楽の方向性があってない。どちらも個人プレーだ。自己満足な音の出し方だな。確かに芝居は音で救われる事が沢山ある。新感線のように音が無くては成立しない芝居もある。今回のはそうだったかなあ。音で役者を引っ張ろうとでもしたのだろうか。だとしたら傲慢でしかない音だな。とにかく気持ち悪い。これも構成を含めた音と演出と役者のコミュニケーション不足。だったら無しで出来るくらいになって欲しいなあ。
若い人が演劇をやる。ものすごい期待をしながらみているのだ。がんばれ。]]>
秘密の花園
http://engekistep.exblog.jp/4121886/
2006-07-10T17:39:00+09:00
2006-07-11T18:30:14+09:00
2006-07-10T17:39:27+09:00
engekistep
演劇
劇団B-BLACK 「秘密の花園」 作・唐十郎 演出・原和人
青葉町(南甲府)特設会場 http://www.b-black.jp/mac/index.html
平成18年7月8日・9日 PM7:00~
久しぶりのB、それも唐作品である。初めてBの公演を見たのも唐作品だったかもしれない。
Bは、山梨では珍しいアングラを主とした劇団である。さらに公演ではホールを使用せず、倉庫などを借り切って舞台や客席を手作りするという、とんでもないところである。今回も南甲府駅そばの大きな倉庫を2週間借り切って設営。かける金額も7桁は当たり前、スタッフもその道のプロというアマチュアの範囲を超える集団である。撤収すると分かるが、使っている材の料を見ると感心するより呆れる。
今回は準備段階から手伝いたかったが時間が無く、今回は受付と撤収のみ参加することになった。
で、舞台だが。相変わらずすげー。舞台設定は安アパートの1室。上手には共同便所(劇中ではご不浄と表現)正面には襖(正しくは窓なのだが、襖の表現のほうがぴったり)がある。劇中では後半大雨のため町中が浸水し、窓の外は川のようになってしまっている。Bはそこにプールを作って、実際にその中に飛び込んだりボートやイカダを浮かべた。下手すると舞台よりプールのほうが広いんじゃないかな。
ストーリーなのだが。残念ながらこの台本を読んだことが無い。唐作品に共通して言えるのは、例えばその作品に貫く主張というものが殆ど無かったりするし、登場人物も複雑に絡んでさらに他人の思いを自分の台詞としてしゃべったりするのでものすごく曖昧である。なのであえてストーリーは書かない。もしこの本をどこかで手にすることがあるなら、一度目を通してから芝居を見るといいかもしれない。
おそらく、今回初めて唐を見たという若者もいるであろう。で、彼らの感想はたぶん「とても複雑で難解な作品」と思ったに違いない。唐の作品をTVドラマ乗りで観たら、たぶん理解しがたいであろう。役者の口から出る台詞をそのまま受け取って理解しようとしたら楽しめない。
唐作品を読むと、彼の台詞が目の前に起きたドラマを多発同時的に言葉にしているのが分かる。
自分は背が小さくて巨乳の女性が理想なのだが、例えば仕事の関係でそのような女性が目の前に現れるとすると、仕事をする相手として冷静に接する自分と、口には出さないが下心を持って見ている心の言葉が同時に存在する。と、同時に、相手の女性にも似たような背景がある。仕事の相手として冷静に接している姿と、「嫌だこの人、いやらしい目をして」という心の言葉と。それを同時に台詞として成り立たせようとする。さらにそこに第三者を登場させ代弁するしね。
わーなんて下品な、と思われるかな。でもそれも、唐流の変換法で、美しい言葉で、詩的にやられるもんだから本当に感心するのだ。
さて、感想だが。
とても切なかった。芝居が・・・ではない。Bに対してだ。作品のレベル的に見ると、過去のBの作品の中では残念ながら下のほうである。なぜなら・・
理由は二つ。
パワーが無い。雨宮さん、原さんに共通して言えるのは、過去のB作品からの比較ではたぶん一番シンプルに、確実に演じていたと思う。立ち姿で言えば無駄が無く綺麗に立っていたのではないか。台詞もちゃんとしゃべっているし。よく言えば過去最高の「演技」だった。演出としてはそれでいいのかも知れない。でも、そのせいで唐の書く台詞のパワーが消されてしまっているのだ。ここで必要なのは、雨宮さん演じるアキヨシがそれでも立ち続けていようとする力強さではなかったか。良く分からない台詞の羅列を成立させるためには、もっともっと力技が必要だと感じた。
二つ目。役者間のレベル。
若い役者は良い。エネルギッシュだもの。上手いとか下手とか以前に、「俺はこの役をやるんだ!!」という情熱がひしひし感じて良い。アングラっぽいのだ。逆に言うとこれがアダになる。どうしても役者間のギャップが目立ってしまうのだ。
これも原さんの言う世代交代なのか?
今回とても良かったのは、かじか演ずる高橋誠さんである。過去の公演(ただし自分は全て観たわけではない。7割は観たと思うので、観てないのもある)での高橋さんの役は、どちらかというとちょっと引いた感じの役を振られていた感じがある。彼の顔つきもどっちかというとクールなほうなので、それはそれで間違いは無かったのだが、どこか本気ではないのか、と思わせる演技が多かった。ところが今回のはすばらしい。立ち姿も声も台詞もちゃんと通ってる。感覚から言うとちょっと頭の弱さも持った色男的役なのだが、全てにわたってキレがいい。高橋さんは顔もシャープで良い男なんだよね。なぜにもっと早くこのような役を見せてくれなかったのか。
上野の不忍池に飛び込む唐一行。彼らのパワーをこれからも田舎の若者に引き継いで欲しい。そのはちゃめちゃとも取れる演劇から発するドラマに感動させてよ。原さん、雨宮さん。]]>
MONSTER'S LAIR
http://engekistep.exblog.jp/4114702/
2006-07-09T10:31:00+09:00
2006-07-12T18:33:06+09:00
2006-07-09T10:31:10+09:00
engekistep
演劇
MONSTER'S LAIR ~消えていく者 蘇るモノ~
2006/7/6 大塚 萬劇場
STEP片割れの山岸が、またまたMarmosetに出るというので行った。東京は大塚。萬は初めてだ。大塚は都電がある。高田馬場に通った者としては都電が走ってるだけでうれしくなるなあ。
さて、2劇団のCOLLABOらしいこの作品。前に見たMarmoset作品同様、未だに良く分からない所がある。結局、最後はどうなったのでしょう。
とある樹海の中に建つHOTEL。そこのオーナーは、なんとドラキュラ。で、従業員全員が物の怪という設定。背筋の正しいせむし男が客を迎え、人の形をした座敷童子が居候をする。
このドラキュラさん、物の怪が普通の人たちと共存できないかをン百年と研究しており、様々な手法で一見人間として振舞えるようにワザをかけている。が、未だ完全なワザではなく、ろくろ首さんはムチウチで苦しみ、若き砂掛け婆は不眠症に悩む。そんな噂をどこからか人も物の怪も聞きつけ、集まってくる。そして満月の夜には、二度と帰らぬ者まで現れるという。
噂を聞いた雑誌記者一行と刑事達も、満月に合せHOTELへ。
だが、想像に反して物の怪たちは素直に質問に答える。自分達はオーナーにより救われていること、自分の意思でここで役割を見つけ働いていること、出来ることなら静かに暮らして生きたいこと。
だが、満月が昇るにつれ、不穏な影が忍び寄る・・・
前回観たMarmoset作品も同じような感覚の作品である。簡単に言えば、ゲームやアニメ的なのだ。物の怪が出るからアニメ的というわけではない。話の展開、演出法にある種の雰囲気がある。友人であるβ氏の表現を借りれば、基本となる話に「コード化」「パターン化」を組み入れた展開と、それを生かすべくポイントを押さえた演出となるのかな。
http://bbeta.exblog.jp/2322435
ここでなぜ人の話を借りるのか。正直に言って、こういう展開が苦手なのだ。この手のゲームやアニメが生活の中に普通にある人なら何の抵抗も無く頭に入るのだろう。
ま、俺、オジサンダカラナア・・・・と、言いたいところだが。せっかく上京してまで意味分からないのを見せられるのは辛いなあ。
結局、オーナーをコントロールしてた悪者は、何が最終目的だったのか。ミイラさん二人の目的も分からない。オーナーの「妹」とされた女性は、何のために連れられていったのか。物の怪たちは、どこに向かおうというのか。取って付けた様に豹変する妖怪ハンター。妖怪ハンターという生業が嫌だ、という割にはしっかり修行してる演出だし。そもそも才能や生まれ持った物だけで物の怪と対峙できるならハンター一人で解決できちゃうじゃん。
役者達は分かってやっているようだし、客の殆どが楽しんでいるようなので分かっているんだろう。字で見れば分かるのかな。
オタク風に言えば、ガンダムにZガンダムのサイドストーリーを無理やり入れたような。欲張り?。
というわけで、ストーリーとそれに関わる演出は、決して褒められたものじゃない。残念ながら。
でもね、決して全てが悪い作品ではないのだ。それは役者の平均レベルが高いからだろう。少なくとも楽しんでやってるし。特に平均より高い美形揃いの男優。いいなあ、イマドキの若者は、皆足が長くて。女優達は美形というより個性がしっかりある。役者達はそれだけでも売りになる。そうゆう役者を集められるってのも才能だな。
でもね。
男どもよ、なぜ君たちはもっと自信を持って舞台に立たないのだ。いつも何かを気にしているような演技なのだよ。演出にその演技でOK貰っているなら何も気にすることも無いだろう。大事なシーンでもそんな感じだから、客席に偉い人でも居るのかときょろきょろしてしまったぜ。
物の怪役の女優の衣装が良い、というか、演出の狙いにあっていた。オリジナルのロングタイプメイド服なのだ。この前アキバに行ったら、路上で黒のミニのメイド服のねーちゃんたちが現れて、カメラの連中が取り巻いていた。正直どこがいいのか分からなかった。どう見ても風俗、良くて喫茶店のウエイトレスじゃんと。ところが、劇中の衣装はそういう下品なところは無いのだが、猫娘役の女優にはアクションがある。このお方が高いところから飛び降りたり、後半ではくるくる回ったりして戦っちゃうのだ。さらに白のガーターストッキングで。
なるほど!と思った。たまにネットを渡り歩くと、メイドが主人公の同人系雑誌がアップされたりしてるが、まさにアニメの主人公そのものなのだ。しとやかな感じの女の子が激しく戦うってのもいいもんだな。と、ちょっとオタク文化の一角に触れた感じだ。
今回も映像を使ったり、流行のものを入れたりした仕立ても悪いとはいえないけど、こういうのを見れば見るほど、シンプルなものを観たくなる。この路線もファンに残しつつ、例えばピーターブルック風の物にチャレンジして欲しいなあと思った。役者には可能性を感じるのだよ。それを面白いと感じるかは別だけどね。
で、とって付けた様に山岸君の感想も。
楽にやってるから(手を抜いているって訳ではない)良い感じよ。可能性を広げるには必要だもの。まあ、おばちゃんがんばってるってふうにはならないでね。
ただね、今のあなたの演技はいまだ心に残らない。もしかして相変わらず全ての台詞を届けようなどと思ってるのかしらね。2時間の芝居でも、観終わっても心に残るシーンはせいぜい30分。1週間経てばわずか10分。その10分間に残るための芝居も考えようよ。
]]>
AIR STUDIO [39] お寺においでよ
http://engekistep.exblog.jp/3935689/
2006-05-21T23:17:00+09:00
2006-05-22T13:45:02+09:00
2006-05-21T23:17:28+09:00
engekistep
演劇
脚本/演出 八鍬健之介
STEP片割れの山岸が出ると言うので行ってきた。場所は歌舞伎座のそば。歌舞伎座の前には、ツアーバスが列をなし、終演で出てきたおばさん達が溜まってるので身動きとれないくらい。逆には新橋演舞場と正に芸能の街といった風情か。
AIR STUDIOってのは・・・まあ説明するより本人達に聞いてみましょう。
http://www.airstudio.jp/index_333.html
ある地方に、女子大生殺害事件が起こる。未だ犯人は捕まらず、刑事は被害者が葬られている寺に何度も通う。
この寺。かの一休縁の寺と言うが、今は和尚と小坊主が住む小さな寺である。そこに、素行の悪さに困った親が、修行と言う名目で放り込まれる少年がやってくる。刑事と少年は顔見知りであり、少年には名探偵の才能があり、刑事は事件解決の協力を請う。
同じ時、TV番組制作のため、キャスターとカメラマン、そして変形版細木和子(?)がロケでこの寺を使いたいとやってくる。山岸はこのキャスター役である。
実はこの寺、被害者の霊が出るのだ。対峙する少年。そこで少年は真犯人を探すことに。
で、芝居の中身だが。
困ったことに巷ではサスペンスの大安売りをしている。そのためか毎日のように殺人事件をドラマで見ている世代には犯人がすぐに分かってしまう。筋立てがキーワード化されているんだよね。火サスの新聞ラテ欄3人目が犯人の可能性が高い、みたいな。まあ、これは役者の技量ってこともあるんだけど、話作る立場とすると、キーワードに沿って作ったほうが楽だもの。それを悪いとは言わないよ。それをどう膨らませるかが作家の腕だからね。
今回もまた同じように、登場人物がで出揃ってしまうと・・・約4分で犯人がだれなのか分かってしまった。まあ、芝居の本筋が推理物ではないからいいのだけど。
しかし・・・カメラマンのタチ君。顔のくどさで舘ひろしのタチ君になったかもしれないけど、最初の登場から立ち振る舞いが犯人なのさ。顔だけで私が犯人ですって。それが演出の狙いならある意味すごいけどね。
こういうのを見ると、しみじみ毒されているなあと思う。人が死ぬってものすごいドラマなんだけどね。まあこの辺の社会事情は別のお話で。
さて、感想なのだが。
まず、この小屋。ビルの地下2階のおそらく20畳くらいの所に、ひな壇に50客席が作られている。舞台エリアは6畳くらいかな。照明吊るなんてことも出来ないスペース。レールにビーム球を付けてやってる。学生演劇を思い出すな。
でも、こういうの好き。先日見た芝居は、明りも音もそれなりの物を使っているが、芝居の中身がどうも・・結果、カッコばかりの芝居に。一体感まるで無し。スタッフの自己満足。だったらこういう形式で十分なのだ。
話は前記の通りで、これをお笑いに仕立てている。喜劇ではない。
喜劇とお笑いとコント。自分はこれを分けている。厳密な規定は無いけれど、本当の喜劇はごくわずかだ。どれも客を笑わせるための物だが、喜劇はおふざけではない。登場人物がまじめで一生懸命なのだけれどどこかずれていて可笑しいが哀しい、というものだ。それに対してお笑いは笑いだけを追及した物でその背景に深みなどいらない。その瞬間だけ可笑しければいいのだ。
この芝居、残念ながら俺は一度も笑えなかった。笑わそうとするネタは5分に1回は提供してくれる。ボケと突っ込みも分担として成立している。テンポもなかなか良い。でもさ、お笑いには客を引っ張る勘ってのが大前提にあるのだよ。坊さんの頭に良い音でツッコミ入れてもイマドキの客はそれだけでは笑ってくれない。
比較しては悪いが、あのダウンタウンのお笑いのすごさはそこなのだ。松っちゃんののらりくらりしたボケに反射神経でツッコミ。松っちゃんが受身を取れないくらいすばやい。でもちゃんと計算されてる。客がここで「突っ込んで欲しいボルテージ」の99%のところでスパッと。で、たまに「突っ込んで欲しいボルテージ」が100になっても微妙に引っ張って120%ぴったりでまた。客の反応をつぶさに感じる感受性があるからできるワザだと思うのだ。
そのためには余裕が無いとね。全役者にいえることだが、本当に余裕がないのさ。せっかくこれだけ客席が近いのにね。客の息を感覚的に感じ、客のボルテージが足りないと思ったら無理にでも引っ張るくらいの「遊び」を持たないと。
その意味で惜しいのが贋細木和子さん。イキオイはあるし、あのバディは卑怯だ。んでも彼女もまた、がーっと出るだけでくいっと引っ張る要素が無い。素質は感じるが、まじめすぎるのかな。
で、これはまずいだろうと思ったのがタチ君。俺の観た回で、贋細木和子がミスる。確か「(体調不良だから)夜まで寝かしてよ。」という台詞を「いいから朝まで(ハッ・・・)夜まで寝かしてよ!」と言った。で、彼女が退場してから「あ・・飛ばした」といったのだ。これって何?役の関係性から見てもタチ君のレギュラーな台詞ではないだろうし。もしかしてこの瞬間役者自身に戻って突っ込みを入れたとでも言うのだろうか。もしそうなら絶対やめなさいね。君は人の演技に突っ込めるほど上手くないし余裕も無いじゃん。
これがタチ君の客ばかりだったり、内輪だけならそれも面白いとは思うが、俺が演出だったら灰皿投げてたな。そういう突っ込みは、役の中のキャラでやるならいいが、君程度のレベルの役者がやったら客は引くよ。確かにあちこちの舞台でも良くあるのさ。先日も夜の番組で久本とゲストが芝居してて、ゲストがとちった。で、久本が「違う違う」とか突っ込みを入れてその場で修正してちょっと戻してまたってのをやってた。これはある意味「久本なら」という客とのお約束事があって成立してるんだって事、久本クラスの役者だからできるんだって言うことを忘れないで欲しい。
で、久しぶりの「ビルの1室」芝居。基本的には好きな芝居のひとつ。舞台の大きさ=面白さではない。テンポも良かった。でもでも。物足りなさが残ってしまった。笑わせてもらいたかったな、2500円のうち500円でもいいから。せっかく山梨からきたんだもん。面白い要素はたくさんあるけど・・てとこで。
で、山岸君への感想も。昔よりちゃんと動いてしゃべれるんでびっくり。昔はどっちかしかできなかったんだよね。動きながらだとなに言ってんだか分からない。止まったまましゃべらせないといけないお方だったから、そういう使い方を基本にしてたんだが。舞踊とかが効いたんだろうか。相変わらず棒状態で動くんだけどね。
あと、相変わらず甲高い声が。ま、これも使い方だしね。
お互い年取ったねえ・・・
歌舞伎座側の道を通って帰ったのだが、あちらはおばさんバスツアーの列がすごかったな。圧倒された。
あと、岩手県のサテライトショップによって、ずんたまめのおはぎを買った。うんまいなあ。これ
PS
そういやトラバられておりまするこのお方も観客の一人。俺とちがって決してけなさず・・てのがやさしくていい。
基本的には俺は演劇の前の映像って奴は大嫌い。そもそもそういうことは芝居の中で表現するべきだし、やりたければ某浦安のアトラクションのように本編とは別にロビーか客入れの時にでも流すべき。
ただし、今回の、というか、こちらの劇団のシステムが自己完結型ではなく、多面的に宣伝していかなくてはならないタイプの成り立ちなので仕方ない所もあるかなと・・・
でもさ、だとしたらもっとまともな映像を流してくだされ。次も観たいと思わせるようなね。]]>
創作座 楽屋
http://engekistep.exblog.jp/3908334/
2006-05-15T00:10:00+09:00
2006-05-15T23:58:14+09:00
2006-05-15T00:10:03+09:00
engekistep
演劇
アンドロワークショップの講師をやった時に珍しく創作座の役者が来た。創作座の人が外に出るってのは初めて聞いたのでびっくり。
創作座は山梨では老舗の劇団で、今回20周年とのこと。ところがどうもここのお方は色んな意味で偏りがあった。まあ、組織を長く運営していくってのは大変な努力が必要なわけで。特に芝居のような金にならないような趣味であるし、山梨のような田舎で長く続けるためには、多面的に仕方の無いことなのかなとは思うのだが。
さて、私は創作座の芝居を過去何度か見ているが、正直最後まで見たのは1本あるかどうか。最後まで見続けるのが本当に辛いのだ。しかし今回はワークショップに参加した方の弁では「昔よりがんばっている」というではないか。
だから本当に期待をしながら向かったのだ。
楽屋は清水邦夫が作った本であり、登場人物も4人、舞台設定は楽屋という1場物であることからあちこちで上演されている。山梨でも過去上演されているのを2度ほど見た。結構奥が深く難しい作品である。とにかく、女優の素材を生かさなければ処理できない台詞が山のようにある。女優にとっては真剣勝負できる良い本である。
ストーリーの紹介は、種明かし的要素が含まれるので、ここでは伏せる。
創作座は4人のほかに4人のコロスを登場させている。
まずは4人のコロスから始まる。鏡と思われる物をもって、SEに合わせて動きがある。鏡は意味を持つ重要なアイテムでありモチーフなのだ。
例えば鏡は「真実を映すものでは無い。魔を映すものだ。」といわれる。楽屋入りした役者は鏡を見ながらメイクをし、ある者はその瞬間に役に入る。ある者は自分の中に役のキャラを見つけ、感情移入していく。現実を生きる人間が、役者として別の人間になっていく。正に「魔」なのだ。「魔」に魅入られた役者は、そこから抜け出すことが出来なくなる、という、演劇人間だからこそ分かる素材だ。。
「楽屋」はひとつの空間ではあるが、そこには鏡というモチーフで現実と魔の境界線を客に意識させる。そのためのコロスであろう。
このコロスの使い方。おそらくどこかの劇団でやった物を模写した物と思われるが、これが全くの意味不明な時間になってしまった。客席に対し1メートルくらいの板にシルバーを貼り付けた物をそれぞれが持っているのだが、動きは散漫だしだらだらと動いているのでとにかくキタナイ。反射した光を客席に当て、やろうとしていることの意味は分かるのだが、これじゃあ客に意味は伝わらない。
これがオリジナルなら、発想は評価しよう。もしどこかの劇団がやった物を模写したのなら、形だけ真似をしてその真の意味を汲み取れない、あるいは役者に対して説明できない演出の責任だな。
まあ、照明の問題もあろう。真闇にして、鏡にピンで明かりを当て、コロスを完全に闇にしたら、コロスのだらだらした汚い動きを殺せたかもしれない。文学館だから仕方が無いとでもいいたいのか。それが伝わったから、「これは模写だな」と思ったのだが。
俺はコロスは日本語で「殺す」でもいいと思っている。まずは個性を殺し、演じようとする欲を殺さなければコロスは出来ないからだ。
最初からやってくれたぜ。全く。
まあ、これこそが創作座なのだが。もちろん悪い意味でね。いろんな良いものを取り入れようとしてはいるのだ。それは評価できる。ただ、その意味などをまったく理解せずに真似しようとする。姿を真似しても、本質を盗まなければ。良いと思ったら、何が良いと思ったのか、一度分析してから自分に入れていくことをしなければ。演出は頭を使うことを、理屈を成立させることをしなければ。
中には理屈なんかいらん!、という演劇人はいる。演出、役者含めてね。しかし、そういう人は実はちゃんとその人なりに考えている。方法論がある。ただ、そう言わないだけで。だから、実際やってみるとちゃんと伝わる。考えてない、考えられない演出、役者が出来ない、見せられないのはここにある。「言葉じゃない」は言い訳に過ぎない。
で、この後はおなじみの本筋に入っていくのだが。
最初のシーンでは、劇中劇のような形で「かもめ」を演じる女優が登場する。「かもめ」はチェホフの代表的作品である。なぜ「かもめ」なのかは・・これまた長くなるのでこっちに置いて。
このシーンで大切なのは、「かもめ」を演じさせることによって、この女優の力量を客に見せることだ。かもめが演じられるくらいの、自分の楽屋が与えられる位の女優ですら、実際はこんな物なのだ、とか、そこそこ上手いんだけどね、とか。とにかくある程度の説得力を必要としている場面なのだ。逆に言えば、このかもめの演じ方が、そのままその劇団の中心的イメージの演技になる。
で、創作座は・・・またしても・・この演技は、もしかして新解釈だろうか。これこそ演出なのだろうか。わざとらしい台詞回しに過度な手振り。うーん。
で、まくらさん登場。あれれ、この人も同じ演技だ。このわざとらしい台詞回しや動きは、演出の計算なのね。うーん。
やはり最後まで見ることは出来なかった。生理的に受け付けないのかもしれない。その理由を書き出せばきりが無い。まあ1時間は見たんだから。勘弁してくれ。最初のコロスで失望したが、あれが無ければ最後まで見たかもしれない。
ただひとつだけ安心した。創作座の作品は、4年は見ていないと思うけれど、今回はその4年前の芝居よかはちょっと良かった。だって、致命的な間違いをしなかったからね。1時間は安心して見えた。それだけでも良くなったか。
確かに俺を誘った役者さんの言うとおり、がんばってはいるみたい。役者レベルで。だから惜しいんだよなあ。ワークショップで見せてくれたあの情熱が、芝居全体のレベルアップに繋がらない、あるいは繋げられない何かが存在するのか。
そういう意味では、この楽屋そのものが、現在の創作座の姿なのか。 納得、発見。
]]>
贋作 罪と罰
http://engekistep.exblog.jp/3656200/
2006-03-14T19:57:51+09:00
2006-03-18T15:09:48+09:00
2006-03-14T19:55:24+09:00
engekistep
演劇
平成17年12月22日
ありゃりゃ、もう3ヶ月もたっとる。時間はあっという間に過ぎてしまうなあ。
とりあえず大阪公演が終わるまでと思ってたら・・・。
さて、罪と罰の再演である。これ、前回のも見た。その時の主演は大竹しのぶであった。今回は松たか子という。松たか子の野田作品を見た時はまだ初々しくて、お嬢様という感じだったのだが。今回はどうでしょう。
贋作・罪と罰は、かの有名なロシアの小説、ドフトエスキーの罪と罰の野田秀樹風リメイクである。本家はもちろん外国産なんだけど、こちらは江戸末期の坂本竜馬暗殺のときを中心に描かれている。野田風の遊びはもちろん多く入ってるけど本家罪と罰の持つイメージを壊したりはしない。むしろ小説離れしてる現代人にはこのくらい軽くなってる方が伝わるのかも知れない。
『人間はすべて凡人と非凡人との二つの範疇に分かたれ、非凡人はその行動によって歴史に新しい時代をもたらす。
そして、それによって人類の幸福に貢献するのだから、既成の道徳法律を踏み越える権利がある。』
本家罪と罰の主人公の主観を、そのまま江戸末期の女学生三条英に置き換えた野田版。名のある旧家であった三条家は、プライドだけは高いが生活は楽なものではなかった。英は家からの援助も受けられず生活苦に陥り、金貸しの老婆より金を借りる。老婆の金を見たとき、この老婆がただ貯めるだけに留まらせるよりも、理想を高く掲げ世の中を導く存在であろう自分が生き、活動していくためには、老婆を亡き者にしてその金を世の中のために使うことも許されることだと思うようになる。
計画を実行に移した英は、そこに居合わせた老婆の妹をも殺してしまう。
一方、坂本竜馬を危険思想として追いかける検事の郡は、走査線上に浮かぶ三条英に目をつける。
己の罪に苛まれる英の前に、家族も含め援助をするという溜水という男も現れる。
英の家族、英の活動仲間、そして郡の説得により英は・・・
台本は小説ではない。役者が演じて初めて生きた言葉となるテキストに過ぎない、のだが、これは台本だけでも十分面白い。それはドフトエスキーの元となる小説の普遍的テーマが十分生かされているためであるが、時代設定を幕末にしたところが光るのだ。国という価値観を根本から変えようとする人間達のエネルギーに魅せられるのは自分だけではないはずだ。
今回の舞台は、ステージにも客席を作り、舞台を2段式のひし形に作り、円形劇場のように全方向から客が見えるようになっている。2段式の下の段には役者の控えスペースになっており、そこで役者が道具を使って効果音を出したりしている。前回の公演では、効果音は全て役者が作っていた。それはなるほど面白いと思った。今回はそれほど活用してはいなかったが、十分生かされた音になっていた。
主演の松たか子は、すっかりお嬢様的雰囲気が無くなり、良い意味で女優だなーと感じた。もう20代後半なんだよね。ただ、どうしても同じ作品なだけに大竹しのぶと比べてしまう。大竹しのぶの力強さほどは残念ながら足りないのだが、凛とした立ち姿は大竹しのぶとはまた違った魅力になった。大竹しのぶは女性の自立を掲げて、男性には負けないぞという意気込みが、一見強そうに見えて、実は強がっているだけの女性像という感じに対し、松たか子の方は、自分の弱さを認めつつもしたたかな女の強さを根底に持っている女性像に見えた。野田の使い方、キャラの設定方法は本当に関心する。
野田演劇にはレギュラーとなりつつある古田新太。才谷という書生で英と同士という設定であるが、実はこの男・・・・の種明かしはまたいつか。今回は重要な役ではあるのだが、松とのカラミがどうも落ち着かない。このためにラストの説得力がいまいち足りなくなってるのだ。これは古田が役不足というわけではない。どうも自分は古田新太が舞台に上がると笑い、というか求めているものが違う方向に向いているらしい。役としてのキャラはとってもカッコいい役なのだ。松たか子の凛とした立ち姿と古田新田太。ラストシーンが薄くなったなあと思ったのは贅沢な感想なのか。
今回とても良かった役者は、美波という女優。役としては英の妹役で、英とは全く違った生き方を選択しようとしている女性の役であり、英が世の中を敵に回しても自分の信念に従って生きることにこだわるが、妹は流れに逆らわず、自分より家族や周りにとって何がいいのかを選択する女性像なのだ。
ところが。援助と引き換えに溜水との結婚を承知はするが心まで許すことが出来ない。迫る溜水に妹が自分の本心をさらけ出していく。
この一連の、妹役の美波の演技がすばらしい。家族に、男に従順である自分の姿に酔う芝居から、溜水に追い詰められても自分を捨てないという演技への変化。「~なんですのぉ」という変なイントネーションの付いた台詞を自然にあっさりと使う。追い詰められる場面では本当にドキドキした。今回の舞台で初めて見たけれど、もっと見たいと思わせる女優である。
昔一度見た芝居であり、ストーリーも頭に入っているので初回ほどはドキドキしなかったが、それでも細かいところで作り変えた部分も新鮮で、とても楽しめた芝居であった。
ただ悔しいのが、未だに名作「キル」を超えるものを見れないということにある。それは贅沢なことなのだろうか。野田さん。]]>
貢川アートフェスタ PARANOIA AGE 「怪」
http://engekistep.exblog.jp/3463375/
2006-02-01T11:29:53+09:00
2006-02-01T11:29:53+09:00
2006-02-01T11:29:53+09:00
engekistep
演劇
今回ななんたって場所がすばらしい。甲斐善光寺の本堂を夜だけ舞台に設営。そこで日本古来の怪談をパラノイア風アレンジしたものをオムニバス上演。こういった場所だからこそ、お互いの相乗効果で面白いものが出来る。
詳しくは http://www.paranoiaage.com/ こちらをどうぞ
さて、今回もSTEP片割れの山岸が出ている。山岸は芝居ではなく「唄」のパートである。こういう経験もいいものだ。
で、そんな関係から舞台設営に3日間引っ張り出された。翌日は年1回だけしか行われない某資格試験であるのにだ。実は去年も同じような日程で、試験と公演がダブった。
結果は・・・・又来年受けますよ。ええ。ちくしょう。来年はこの時期に芝居を入れないで欲しいな。根が好きなのだから、誘われれば断れないのだよ・・・
てな具合で、純粋ではないが設営スタッフ&駐車場係として協力してしまったので、やはり贔屓してしまう。だからあまり感想は書かないことにする。
ただ、場所はこの内容には最適。もしかしたら本物の怪も、客の隣でそっと見ていたかもしれない、と思わせる。
のっぺらぼうやかちかち山など、子供でも分かりやすい話をモチーフにしたところもすばらしい。さらには欲張らず、舞台設定を小さくしたのもいい。
以前から山岸に、「パラノイアは怪はとても定評がある」と聞いていた。他の演目も東京で見たが、なるほどそう思った。
パラノイアの芝居は、舞台から飛び出してくる芝居ではない。どちらかというと役者のひとりひとりが小さな枠を与えられてその中できっちりと作っていく動きをする。今回のように小さい舞台でシンプルなものをするのには良いのだが、大きな話になると、どこか消化不足を感じていた。
それが全て悪いというわけではないのだが。日本舞踊などをやってる人には、いわゆる通好みの芝居なんだろうと感じている。
しかしね、山梨ではこの手の物が過去無かったのだ。もし有っても若い人が見に行くようなスタイルでもなかったと思う。今後も是非に続けて欲しいものだ。皆が知ってる話でも、魅せ方が違うとこうも世界観が変わる、そこを知って欲しい。
しかし、寒かった。お寺の本堂だからね。冷暖房完備の小屋じゃないので、慣れない客は寒くて途中で帰ってしまった。おしいなあ。
あと、小屋でないところでやるのは本当に大変。去年のBPSプロジェクトほどではないけどね。甲斐善光寺を借り切っての公演ではなく、夜間だけの使用なので、昼は通常営業なのだ。だから夕方お寺が終わってから、全ての物を搬出し、設営し、朝からのお寺の営業に支障が無いように元に戻すのだ。それもこれも、彼ら若い役者、スタッフの力があるからなのだね。演劇はある意味華やかな世界なのだけど、こういう裏方仕事があるから、照明の当っている所がきらびやかに輝くのだ。俺はお手伝いだけだったから猫の手にもならなかったけどね。それでもすげーバテた。もう歳だw。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/