笑の大学 ジアス10周年記念公演
2006年 08月 22日
日時:2006年8月19日(土)18:30 pm 場所:山梨県立文学館
演出:はやおとうじ 出演:砂澤雄一 坂本勇太
三谷幸喜の名作「笑の大学」。三谷お得意のシチュエーションコメディー。舞台ならず映画にもなったまさに名作。まだ映画はみていないが、舞台は本当にすばらしかった。元サンシャインボーイズの西村雅彦と近藤芳正。演出も元サンシャインの山田和也が担当。三谷も良いが山田を演出に指名したのは正解だった。すばらしい舞台であった。
舞台は戦中の日本。警視庁保安課取調室。 笑いを徹底的に弾圧しようとする検閲官・向坂は過去笑ったことがないと自負するほどのお笑い嫌い 。そこで喜劇を上演する劇団の座付作家・椿が、上演予定の台本の検閲を受ける。無理難題を押し付け何が何でも上演中止をさせようとする向坂と、認めさせようと何度も何度も書き直しをしてくる椿。椿は戦中日本を笑いで救おうと戦いを挑むのだった。
感想
ある劇団の稽古を見学したときであった。そこの演出は稽古中の台本をとにかくけなす。その本はそこそこ名の通った人の書いた台本であり、定評はあるものだった。確かTVドラマでもやった記憶がある。演出の言うのはこんなことだ。時代背景がでたらめなこと。この当時はこんなシステムは無く、こんな結末には絶対ならないと主張していた。例え演劇でもルールはある。全くの架空の話ならともかく、実際にあったであろう話を作るのだからと。
確かにそうかもしれないなあとは正直思った。たまたま以前興味を持った史実で、それについて調べたことがあったから。シェイクスピア時代ですら、舞台上で繰り広げられる話は、時間が一致していなければ、場所が一致していなければなどと決まりがあるくらい。(興味のある人は調べてみると面白いかも)
でもさ、今の時代にどうでもいいじゃんこんなこと。それ以上にその本がとても良いものだから。
恐らく作家は、そこに登場する人物を生かすために都合良くシチュエーションを変えたのだろう。作家が書きたかったのは史実ではなく、そこに生きた人がどう生きたかを書きたかったんだから。そこを掘り下げないでその劇団は稽古を進めたものだから、作品は褒められるものじゃなかったなあ。
で、笑の大学。当時はこんな面接による検閲なんて無かった様子。担当者が書類だけ見て決定する。作家が呼ばれて取調べを受けるときはすでにレッテルを張られた時。その後は・・・
それをこんなふうに仕立て上げられるんだものなあ。三谷のセンスが光る。
さて、ジアス版笑の大学は・・・これも必要かなとは思った。本物の舞台版を見ると分かるが、西村だから三谷はこう書いたんだなとか、近藤だからこんな台詞回しなんだろうなと。例えばサンシャイン時代から、西村はちょっと皮肉な感じの台詞の喋りが上手かった。さらりとしゃべるのだが妙に心に来るいやみなのだ。例えば自分の感情を一言で言い切る時。好き、嫌い、間違ってる。先にこの感情をポンと投げておいてからスラスラと台詞をつなげる。これが良い感じのいやみになる。
近藤もそう。近藤の振り回され感はあまりにも見事で、かわいらしさすら感じる。大汗かいて一生懸命になればなるほど滑稽で悲しい。
三谷の本を知ってるからこその山田の演出である。
で、ジアスの何が必要かなと思ったのは、ジアスの演出が山田和也の演出のコピーであったこと。他の芝居でコピーってのは面白くない。特に前記のように当て書きのような場合は、その役者が演じてこそ面白いってのがどうしてもある。
でもね。これに限らず三谷の舞台を見たいと思っても、少なくとも山梨ではやらない。シアターコクーン1ヶ月の公演であっても、チケット前売り電話予約10分で売り切れである。笑の大学は映画でも、BSの演劇番組でもやっているからまだいいが、一体これだけの名作をどれだけの人が見ることができるのか。
ジアスの演出がそこまで狙っていたのかは不明だが、今回は役者が二人とも西村雅彦と近藤芳正になりきろうとしていた。細かい台詞のイントネーションまで取り入れようと努力をしている。逆に言えば、このまま三谷と山田和也を超える「笑の大学」を作るのははっきり言って無理だと思う。それならば「実はこんなに面白い演劇が世の中にあるんだよ。演劇って良いでしょ」というのを山梨から離れないけれど面白い演劇を見てみたい人に紹介する。三谷って良いでしょ、山田っていいでしょと。そういう役割も必要だなあと思うのだ。
これと同じ感覚を、つかこうへい作品にも感じる。つかの作品は「口立て」と言って、基本となる台本はあるけれど、稽古中に役者にしゃべらせて、ストーリーの背景も含めて役者に演劇を合わせて作り変えていく。売られている台本はそうやって完成したものであるから、アマチュア劇団が上演してもその役者じゃなければ表現できない、あるいは意味が通らないこともある。更には演出もその役者に合わせたテンションで繰り広げられるから、別の役者、別の演出がやってもどこか欠けたような世界観になっていく。それならばつかのマネをした演出法で上演したほうがいいのだ。
というわけで、「笑の大学」を山梨の人たちに紹介するという役割は上手く行ったように思う。客にも十分受けていたし。こうなったら三谷作品を端からやって行って貰いたい。今回のように役者も演出も細かくコピーして。三谷は映像ではどこかピンボケになる。三谷の真の面白さは舞台なのだ。それをどうかアピールして欲しい。
客の評価は良いでしょうね。間違いなく。
で、もうひとつの感想。
俺はね、そんなもの観たい訳ではないのです。これだけ世に評価された作品。コピーがオリジナルを超えるのは不可能に近い。ジアスがこの作品をどう解釈し自分たちが何をしたいのか。それを知りたいのだ。それこそが生の舞台の面白い所なのだから。この作品のジアスらしいところはどこだったのでしょう。未だに分からない。向坂の苦しみってなんだろう。
本物の舞台を観て、ぐっと来たのはあのラストだった。西村がそれまで見せなかった表情で「ここはこうのほうがいいと思うんだけどね」と言い、机に台本を広げる。不器用な姿勢で。椿は一瞬唇を噛み締め、受け入れる。舞台はフェードアウトしていく。西村雅彦と近藤芳正をコピーするなら、ここまでやって欲しかったなあ。
オリジナルは、本当に、良い舞台だったんだからさ。
逆に、映画がとても楽しみになってきた。「有頂天ホテル」は面白かった。でも悔しい。これを舞台で見たらもっと面白かっただろうなあと。だから「笑の大学」は映画館に行かなかった。行けなかった。どうだろうなあ。レンタルDVDが楽しみだ。
演出:はやおとうじ 出演:砂澤雄一 坂本勇太
三谷幸喜の名作「笑の大学」。三谷お得意のシチュエーションコメディー。舞台ならず映画にもなったまさに名作。まだ映画はみていないが、舞台は本当にすばらしかった。元サンシャインボーイズの西村雅彦と近藤芳正。演出も元サンシャインの山田和也が担当。三谷も良いが山田を演出に指名したのは正解だった。すばらしい舞台であった。
舞台は戦中の日本。警視庁保安課取調室。 笑いを徹底的に弾圧しようとする検閲官・向坂は過去笑ったことがないと自負するほどのお笑い嫌い 。そこで喜劇を上演する劇団の座付作家・椿が、上演予定の台本の検閲を受ける。無理難題を押し付け何が何でも上演中止をさせようとする向坂と、認めさせようと何度も何度も書き直しをしてくる椿。椿は戦中日本を笑いで救おうと戦いを挑むのだった。
感想
ある劇団の稽古を見学したときであった。そこの演出は稽古中の台本をとにかくけなす。その本はそこそこ名の通った人の書いた台本であり、定評はあるものだった。確かTVドラマでもやった記憶がある。演出の言うのはこんなことだ。時代背景がでたらめなこと。この当時はこんなシステムは無く、こんな結末には絶対ならないと主張していた。例え演劇でもルールはある。全くの架空の話ならともかく、実際にあったであろう話を作るのだからと。
確かにそうかもしれないなあとは正直思った。たまたま以前興味を持った史実で、それについて調べたことがあったから。シェイクスピア時代ですら、舞台上で繰り広げられる話は、時間が一致していなければ、場所が一致していなければなどと決まりがあるくらい。(興味のある人は調べてみると面白いかも)
でもさ、今の時代にどうでもいいじゃんこんなこと。それ以上にその本がとても良いものだから。
恐らく作家は、そこに登場する人物を生かすために都合良くシチュエーションを変えたのだろう。作家が書きたかったのは史実ではなく、そこに生きた人がどう生きたかを書きたかったんだから。そこを掘り下げないでその劇団は稽古を進めたものだから、作品は褒められるものじゃなかったなあ。
で、笑の大学。当時はこんな面接による検閲なんて無かった様子。担当者が書類だけ見て決定する。作家が呼ばれて取調べを受けるときはすでにレッテルを張られた時。その後は・・・
それをこんなふうに仕立て上げられるんだものなあ。三谷のセンスが光る。
さて、ジアス版笑の大学は・・・これも必要かなとは思った。本物の舞台版を見ると分かるが、西村だから三谷はこう書いたんだなとか、近藤だからこんな台詞回しなんだろうなと。例えばサンシャイン時代から、西村はちょっと皮肉な感じの台詞の喋りが上手かった。さらりとしゃべるのだが妙に心に来るいやみなのだ。例えば自分の感情を一言で言い切る時。好き、嫌い、間違ってる。先にこの感情をポンと投げておいてからスラスラと台詞をつなげる。これが良い感じのいやみになる。
近藤もそう。近藤の振り回され感はあまりにも見事で、かわいらしさすら感じる。大汗かいて一生懸命になればなるほど滑稽で悲しい。
三谷の本を知ってるからこその山田の演出である。
で、ジアスの何が必要かなと思ったのは、ジアスの演出が山田和也の演出のコピーであったこと。他の芝居でコピーってのは面白くない。特に前記のように当て書きのような場合は、その役者が演じてこそ面白いってのがどうしてもある。
でもね。これに限らず三谷の舞台を見たいと思っても、少なくとも山梨ではやらない。シアターコクーン1ヶ月の公演であっても、チケット前売り電話予約10分で売り切れである。笑の大学は映画でも、BSの演劇番組でもやっているからまだいいが、一体これだけの名作をどれだけの人が見ることができるのか。
ジアスの演出がそこまで狙っていたのかは不明だが、今回は役者が二人とも西村雅彦と近藤芳正になりきろうとしていた。細かい台詞のイントネーションまで取り入れようと努力をしている。逆に言えば、このまま三谷と山田和也を超える「笑の大学」を作るのははっきり言って無理だと思う。それならば「実はこんなに面白い演劇が世の中にあるんだよ。演劇って良いでしょ」というのを山梨から離れないけれど面白い演劇を見てみたい人に紹介する。三谷って良いでしょ、山田っていいでしょと。そういう役割も必要だなあと思うのだ。
これと同じ感覚を、つかこうへい作品にも感じる。つかの作品は「口立て」と言って、基本となる台本はあるけれど、稽古中に役者にしゃべらせて、ストーリーの背景も含めて役者に演劇を合わせて作り変えていく。売られている台本はそうやって完成したものであるから、アマチュア劇団が上演してもその役者じゃなければ表現できない、あるいは意味が通らないこともある。更には演出もその役者に合わせたテンションで繰り広げられるから、別の役者、別の演出がやってもどこか欠けたような世界観になっていく。それならばつかのマネをした演出法で上演したほうがいいのだ。
というわけで、「笑の大学」を山梨の人たちに紹介するという役割は上手く行ったように思う。客にも十分受けていたし。こうなったら三谷作品を端からやって行って貰いたい。今回のように役者も演出も細かくコピーして。三谷は映像ではどこかピンボケになる。三谷の真の面白さは舞台なのだ。それをどうかアピールして欲しい。
客の評価は良いでしょうね。間違いなく。
で、もうひとつの感想。
俺はね、そんなもの観たい訳ではないのです。これだけ世に評価された作品。コピーがオリジナルを超えるのは不可能に近い。ジアスがこの作品をどう解釈し自分たちが何をしたいのか。それを知りたいのだ。それこそが生の舞台の面白い所なのだから。この作品のジアスらしいところはどこだったのでしょう。未だに分からない。向坂の苦しみってなんだろう。
本物の舞台を観て、ぐっと来たのはあのラストだった。西村がそれまで見せなかった表情で「ここはこうのほうがいいと思うんだけどね」と言い、机に台本を広げる。不器用な姿勢で。椿は一瞬唇を噛み締め、受け入れる。舞台はフェードアウトしていく。西村雅彦と近藤芳正をコピーするなら、ここまでやって欲しかったなあ。
オリジナルは、本当に、良い舞台だったんだからさ。
逆に、映画がとても楽しみになってきた。「有頂天ホテル」は面白かった。でも悔しい。これを舞台で見たらもっと面白かっただろうなあと。だから「笑の大学」は映画館に行かなかった。行けなかった。どうだろうなあ。レンタルDVDが楽しみだ。
by engekistep
| 2006-08-22 11:04
| 演劇