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演劇を見たままの感想を綴ろう


by engekistep

創作座 楽屋

山梨県立文学館 講堂 5月14日 PM2:00~

 アンドロワークショップの講師をやった時に珍しく創作座の役者が来た。創作座の人が外に出るってのは初めて聞いたのでびっくり。
 創作座は山梨では老舗の劇団で、今回20周年とのこと。ところがどうもここのお方は色んな意味で偏りがあった。まあ、組織を長く運営していくってのは大変な努力が必要なわけで。特に芝居のような金にならないような趣味であるし、山梨のような田舎で長く続けるためには、多面的に仕方の無いことなのかなとは思うのだが。

 さて、私は創作座の芝居を過去何度か見ているが、正直最後まで見たのは1本あるかどうか。最後まで見続けるのが本当に辛いのだ。しかし今回はワークショップに参加した方の弁では「昔よりがんばっている」というではないか。
 だから本当に期待をしながら向かったのだ。

 楽屋は清水邦夫が作った本であり、登場人物も4人、舞台設定は楽屋という1場物であることからあちこちで上演されている。山梨でも過去上演されているのを2度ほど見た。結構奥が深く難しい作品である。とにかく、女優の素材を生かさなければ処理できない台詞が山のようにある。女優にとっては真剣勝負できる良い本である。
 ストーリーの紹介は、種明かし的要素が含まれるので、ここでは伏せる。
 創作座は4人のほかに4人のコロスを登場させている。

 まずは4人のコロスから始まる。鏡と思われる物をもって、SEに合わせて動きがある。鏡は意味を持つ重要なアイテムでありモチーフなのだ。
 例えば鏡は「真実を映すものでは無い。魔を映すものだ。」といわれる。楽屋入りした役者は鏡を見ながらメイクをし、ある者はその瞬間に役に入る。ある者は自分の中に役のキャラを見つけ、感情移入していく。現実を生きる人間が、役者として別の人間になっていく。正に「魔」なのだ。「魔」に魅入られた役者は、そこから抜け出すことが出来なくなる、という、演劇人間だからこそ分かる素材だ。。
 「楽屋」はひとつの空間ではあるが、そこには鏡というモチーフで現実と魔の境界線を客に意識させる。そのためのコロスであろう。
 このコロスの使い方。おそらくどこかの劇団でやった物を模写した物と思われるが、これが全くの意味不明な時間になってしまった。客席に対し1メートルくらいの板にシルバーを貼り付けた物をそれぞれが持っているのだが、動きは散漫だしだらだらと動いているのでとにかくキタナイ。反射した光を客席に当て、やろうとしていることの意味は分かるのだが、これじゃあ客に意味は伝わらない。
 これがオリジナルなら、発想は評価しよう。もしどこかの劇団がやった物を模写したのなら、形だけ真似をしてその真の意味を汲み取れない、あるいは役者に対して説明できない演出の責任だな。
 まあ、照明の問題もあろう。真闇にして、鏡にピンで明かりを当て、コロスを完全に闇にしたら、コロスのだらだらした汚い動きを殺せたかもしれない。文学館だから仕方が無いとでもいいたいのか。それが伝わったから、「これは模写だな」と思ったのだが。
 俺はコロスは日本語で「殺す」でもいいと思っている。まずは個性を殺し、演じようとする欲を殺さなければコロスは出来ないからだ。
  最初からやってくれたぜ。全く。
 まあ、これこそが創作座なのだが。もちろん悪い意味でね。いろんな良いものを取り入れようとしてはいるのだ。それは評価できる。ただ、その意味などをまったく理解せずに真似しようとする。姿を真似しても、本質を盗まなければ。良いと思ったら、何が良いと思ったのか、一度分析してから自分に入れていくことをしなければ。演出は頭を使うことを、理屈を成立させることをしなければ。
 中には理屈なんかいらん!、という演劇人はいる。演出、役者含めてね。しかし、そういう人は実はちゃんとその人なりに考えている。方法論がある。ただ、そう言わないだけで。だから、実際やってみるとちゃんと伝わる。考えてない、考えられない演出、役者が出来ない、見せられないのはここにある。「言葉じゃない」は言い訳に過ぎない。

 で、この後はおなじみの本筋に入っていくのだが。

 最初のシーンでは、劇中劇のような形で「かもめ」を演じる女優が登場する。「かもめ」はチェホフの代表的作品である。なぜ「かもめ」なのかは・・これまた長くなるのでこっちに置いて。
このシーンで大切なのは、「かもめ」を演じさせることによって、この女優の力量を客に見せることだ。かもめが演じられるくらいの、自分の楽屋が与えられる位の女優ですら、実際はこんな物なのだ、とか、そこそこ上手いんだけどね、とか。とにかくある程度の説得力を必要としている場面なのだ。逆に言えば、このかもめの演じ方が、そのままその劇団の中心的イメージの演技になる。
 で、創作座は・・・またしても・・この演技は、もしかして新解釈だろうか。これこそ演出なのだろうか。わざとらしい台詞回しに過度な手振り。うーん。

 で、まくらさん登場。あれれ、この人も同じ演技だ。このわざとらしい台詞回しや動きは、演出の計算なのね。うーん。
 
 やはり最後まで見ることは出来なかった。生理的に受け付けないのかもしれない。その理由を書き出せばきりが無い。まあ1時間は見たんだから。勘弁してくれ。最初のコロスで失望したが、あれが無ければ最後まで見たかもしれない。
 
 ただひとつだけ安心した。創作座の作品は、4年は見ていないと思うけれど、今回はその4年前の芝居よかはちょっと良かった。だって、致命的な間違いをしなかったからね。1時間は安心して見えた。それだけでも良くなったか。
 確かに俺を誘った役者さんの言うとおり、がんばってはいるみたい。役者レベルで。だから惜しいんだよなあ。ワークショップで見せてくれたあの情熱が、芝居全体のレベルアップに繋がらない、あるいは繋げられない何かが存在するのか。

 そういう意味では、この楽屋そのものが、現在の創作座の姿なのか。  納得、発見。
        
by engekistep | 2006-05-15 00:10 | 演劇